シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

サンデル『実力も運のうち』写経取り出しリスト

 

"能力主義の倫理は、勝者のあいだにはおごりを、敗者のあいだには屈辱と怒りを生み出す。こうした道徳的感情は、エリートに対するポピュリストの反乱の核心をなすものだ。ポピュリストの不満は、移民やアウトソーシングへの抗議以上に、能力の専制に関わっている。こうした不満にはもっともな理由があるのだ。
 公正な能力主義(社会的地位は努力と才能の反映であるとするもの)の創造を執拗に強調することは、われわれの成功(あるいは不成功)の解釈の仕方に腐食作用を及ぼす。つまり、彼らの成功は彼ら自身の手柄であり、彼らの美徳の尺度だと考えるように──そして、彼らよりも運に恵まれていない人々を見下すように、と。
 能力主義的なおごりは勝者の次のような傾向を反映している。すなわち、彼らは自らの成功の空気を深く吸い込みすぎ、成功へと至る途中で助けとなってくれた幸運を忘れてしまうのだ。頂点に立つ人びとは、自分は自分の手にしている境遇にふさわしい人間であり、底辺にいる人びともまたその境遇にふさわしいという独りよがりの信念を持ちやすい。これは、テクノクラート的な政治につきものの道徳的姿勢である。
 運命の偶然性を実感することは、一定の謙虚さをもたらす。「神の恩寵がなければ、つまり幸運な偶然がなければ、私もああなっていただろう」と感じられるのだ。ところが、完全な能力主義は恵みとか恩寵といった感覚をすべて追い払ってしまう。共通の運命を分かち合っていることを理解する能力を損ねてしまうのだ。自分の才能や幸運の偶然性に思いを巡らすことで生じうる連帯の余地は、ほとんど残らない。こうして、能力は一種の専制、すなわち不当な支配になってしまうのである。"

 
第一章 勝者と敗者、P40~より
 
 

テクノクラート的な能力は、統治手法として成果を上げられなかっただけではない。市民的プロジェクトの幅を狭めてしまったのだ。こんにち、共通善は主に経済的な観点から理解されている。共通善は、連帯感を育んだり市民の絆を深めたりすることよりも、GDPで測られる消費者の嗜好を満足させることに関わっている。これでは、公的言説が貧弱なものになってしまう。
 近ごろ政治的議論として通用しているものは、次のどちらかから成っている。すなわち、誰の心にも響かない、偏狭で、経営者的で、テクノクラート的な語りか、さもなくば、聞く耳を持たない党派的な人びとの話のかみ合わない怒鳴り合いか。政治的な立場にかかわらず、市民はこうした空虚な公的言説にいら立ちと無力感を覚えている。活発な公的議論がないからといって、政策が決定されていないとは限らないことを彼らは正しく感じ取っている。単に、公の目の届かないどこか別の場所で決定が下されているにすぎないのだ。決定を下しているのは行政機関(規制対象の業界に取り込まれている場合が多い)、中央銀行や債券市場、選挙献金で官僚への影響力を買っている企業のロビイストなどである。
 だが、それで終わりではない。テクノクラート的能力による支配は、公的言説を空洞化させたばかりか、社会的評価の条件を再構成してきた。そのあり方は、資格を有する知的職業階級の威信を高める一方で、大半の労働者の貢献を見くびり、彼らの社会的な地位と評価を損なうものだった。現代の険悪で二極化した政治の最も直接的な原因は、テクノクラート的能力のこうした一面なのだ”

 
第一章、勝者と敗者、P46-47

東畑開人『平成のありふれた心理療法 社会論的転回序説』より

【平成のありふれた心理療法冒頭パート
 
「深いところでつながる」「耳を傾ける」「寄り添う」「抱える」「関係を作る」。これらは平成の臨床心理士養成大学院で頻出した常套句である。このような常套句によって治療方針が立てられ、そして「一緒に考えていきましょう」というキラーワードで治療の今後が約束される(上田,2020)。そのような心理療法のことを「平成のありふれた心理療法(以下、HAP*1と省略する)」と呼ぼう。私自身そこで育ち、そしてそこから離れていったわけだが、このHAPがいったい何であったのかを明らかにするのが本論の目的である。
 

*1:"Heisei no Arifureta Psychotherapy"の頭文字をとったものであり、ワーディングとしてはほぼジョークである。そしてジョークで十分なのである。なぜなら、この概念はこの論文の終わりには姿を消すからだ

《統治される》ということは……

 

 
  

《統治される》ということは、あらゆる活動、あらゆる取引、あらゆる動きにおいて、記録され、登録され、調査され、課税され、印紙を貼られ、測定され、査定され、賦課され、認可され、許可され、注記され、説諭され、差し止められ、矯正され、懲戒され、処罰されることなのである。
 ────ピエール=ジョゼフ・ブルードン

 
 現場での国政術を長らく経験してきた小農たちは、国家が記録と登録と測量の機構だということをつねに理解してきた。だから、政府の測量士が白紙の表を携えてやって来たときや、国政調査官がクリップボードと質問票を持って世帯の登録に来たときには、臣民は、徴兵か強制労働か、土地の接収か人頭税か、それとも耕作地への新たな課税か、とにかくなにかの厄介ごとがそう遠くないのだとわかる。強制力をもった機構の向こうに山ほどの文書があることも暗に理解している。一覧表、各種の書類、納税者名簿、戸籍、規制、要求、命令などの文書は、大半がわけのわからない、理解を超えたものだ。彼らの頭の中では、そうした書類と自分たちの抑圧の源とが完全に一致している。だから、多くの農民反乱で最初に行われるのは、そんな書類がおいてある地元の記録事務所を焼き討ちすることだった。記録をつけることを通して国家が土地と臣民を見ているのはわかっているから、農民は暗に、国家を盲目にすれば自分たちの苦痛が終わると思いこんだのだ。古代シュメールの格言がこのことを見事に言い当てている。「王がいてもかまわない、領主もかまわない。けれど怖いのは徴税官だ」
 
 
 
 

ぼくが考えたブルゴーニュのヴィンテージの雰囲気 2020年版

 
 独り言。
 
 2016年に、シロクマの粘土板で「ぼくが考えたブルゴーニュのヴィンテージの雰囲気」についてまとめたことがあった。あれから4年が経って、ブルゴーニュワインはますます値段が高くなり、ヴィンテージのみせる顔つきも、市場価格の推移も、自分の経験も変わった。そこで、後日の私にせせら笑ってもらうために、もう一度、ヴィンテージについて書いてみることにした。
 
 
 2001年以前について:その後もまとまった数を飲むには至らず。ただ、特級クラスは20年以上を経ても見事な姿をみせてくれることがあってさすがと思うことはあった。自分ではもう買わない領域。
 
 2002年:最近は2002年の高評価を聞かなくなった。市場でもあまり見かけないので買う機会もなし。4年前の段階で引き気味だったけど、当時以上に気にしなくなった。
 
 2003年:赤ワインは今買ってもまだいける。白も長命だった。2010年代前半の評価より、2010年代後半の評価のほうが高くなったように思う。積極的にはもう買わないけど、ボトルを見かけた時、2003年だったからといって回避しようとは思わない。
 
 2004年:当時から評価していなかったけど、その後飲んでみてもやっぱり冴えないと感じたので回避。売れ残りを市場でよく見かける。しかも値段のつけかたが安い。そういう点でも信用できない。
 
 2005年:大当たりヴィンテージとして名高い年。たまにしか見かけず、値段が高い。古くて高いので買わない&買えない。さすがにブルゴーニュ・ルージュなどの平格だと元気を失っていることがあるので、買う or 飲むなら高価格帯の赤ワインかな。
 
 2006年:この年のブルゴーニュで良い思いをしたことがなかったが、その後もだいたい裏切られた。自分じゃ買う気になれない。市場には在庫がまだまだあって、しかも値段が安くつけられているのでくわばらくわばらと思ったりする。個別のドメーヌに関してよほど情報を持っているか、信頼できるソムリエさんが出してくるかしない限りは回避。
 
 2007年:白ワインは2020年に近づいてもなお、見事な姿をみせてくれた。パーカーポイントではボロクソだけど、自分のなかでは00年代の白ワインのなかで一番信用している。赤ワインは酸っぱい感じだったので今買ったらもっと酸っぱいかも、と身構えている。
 
 2008年:よくわからない。とりあえず赤ワインは酸味のやけに強い年、というイメージがあって購入は控えてきた。お目当てのドメーヌ・畑のワインが2008年しか売って無かったら、たぶん買い控えると思う。一部、白ワインは傑作もあると耳にしたけど、どこのドメーヌなら安牌なのかわからないので買えない。
 
 2009年:赤ワインは、まだ底がみえない。我が家の2009年系はぜんぜん元気というか、飲み頃を迎えている気がせず、あと3年ほど待ってみたい。安めの一級やコンディションの悪い一級なら飲み頃かもしれない。平格の赤ワインのなかに、元気を失っているやつがいたので安すぎる品なら飲み頃を過ぎていることもあり得るかも。白ワインは2009年を飲む機会がその後なかったので不明。市場価格は全体的に高め。
 
 2010年:以前に比べて良ヴィンテージの声が高くなってきた&市場価格が上がってきた&モノが少なめになってきた。たまたま何本かストックしてあるけれども飲み頃がわからない。とりあえず、ワインに詳しい人は「まだだ、寝かせろ」と言っていた。ために、あまり参考記録がない。同じく良ヴィンテージとされる2009年に比べると、若いうちから親しみやすいつくりではなさそうで、飲み頃の判定が難しそう。中堅クラスをもう少し飲んでみる必要がある。
 
 2011年:当初、それなり飲めるヴィンテージだと思っていたけど早飲みヴィンテージの気配が出てきた。赤も白も、腰が据わっていると感じない品、浅薄な品に出会うことしきり。在庫はもう飲みきってしまった。市場価格は安め。買わないと思う。
 
 2012年:四年前の時点で今一つな感じだったけど、印象は変わらない。普通のヴィンテージ。市場価格が上がってくる気配のないヴィンテージでもある。今年のうちに飲んでしまいたいなら2020年現在、チャンスかも。
 
 2013年:かつて、高騰していた2013年のヴィンテージは2020年からみて評価されているようにはみえない。この年も普通のヴィンテージで長くもつようにはみえなかった。今年のうちに飲んでしまうならチャンスかも。
 
 2014年:不思議と縁のなかったヴィンテージ。白ワインが高評価と聞いたことはあるけど、そもそも、偵察用の平格の赤白の2014年ヴィンテージを買う機会が少なかった。ゆえに謎めいている。どうなんだろう。
 
 2015年:安いクラスのワインを飲んだ限り、この年はハズレが少なかったので割と多めにストックしてみた。高いクラスはまだ飲んでない。市場価格が上がってきているので、今となっては買うのはおっくう。手持ちをストックしておくつもり。
 
 2016年以降について:2016年はあまり飲んでないのでわからない。2017年の安いクラスは飲みやすかったので安いクラスなら安心……なのだがブルゴーニュワイン全般が高騰しているので昔ほど気楽に買えなくなってしまった。この、飲みやすいということが潜在力の豊かさなのか早飲みヴィンテージなのかちょっとわからない。
 
 とりあえず自分のブルゴーニュ観では、
 
 赤ワインで寝かせておきたいヴィンテージ or 期待度高いヴィンテージ:2003,2009,2010 で
 白ワインで寝かせておきたいヴィンテージ or 期待度高いヴィンテージ:2003,2007,2010 ということになる。2005,2015,2017も期待できるかもしれない。そのほかのヴィンテージは、早飲み用と割り切って買うか、ちょっと遠慮する可能性が高そう。
 
 一時期、自分のブルゴーニュワイン観は「ヴィンテージよりも作り手重視」だったけど、2018年ぐらいから再び「作り手よりもヴィンテージ重視」「というより良いヴィンテージにつくられた並みの作り手のワインを探す」に切り替わった。そりゃ、最高の作り手の最高のヴィンテージのワインをいつも買えれば苦労はしませんが……。
 
 ※個人の感想です。
 ※ちゃんとしたヴィンテージの傾向が知りたい人は、然るべき媒体か、然るべきグーグル検索か、とにかく、偉い人のやつを見てくださいね。

隠居さん、シロクマの屑籠からリンクしてもいいのでしょうか

 
http://ertedsfdsddty.hatenablog.com/
 
 前略
 
 隠居さんのブログはとても面白いし、時折、私へのメッセージも書いてもらえてうれしく読ませていただいているのだけれど、面白いがゆえに、「シロクマの屑籠」のブログ記事のとっかかりというか、一種の「掛け合い」をやりたいという欲求に駆られてしまうことがある。
 
 ただ、隠居さんは、その名前のとおり、隠居しているわけだから、「シロクマの屑籠」に引っ張り出すのは不適当ではないかと懸念したくもなる。隠居さんが「もっと多くの人に読んでもらいたい」のか「できるだけ隠遁生活を続けたい」のかは、ご本人のなかでは割とはっきりしているのかもしれないけれども、一読者である私からみると判然としない。相矛盾したメッセージが発信されているように読め、この矛盾が意図的なものなのか、無意識のうちに顕れているものなのか、判断を留保せざるを得ない。
 
 なので、もし、シロクマの屑籠からリンクして構わなければ、この記事にリンクをつけるか、はてなスターの緑をつけてください。リンクをするのを避けたいか、特に意見は無いということでしたら、無反応か、はてなスターの黄色をつけるか、どちらかにしてください。後者の場合は、隠居さんとのチャンネルは、このシロクマの粘土板に留めておくつもりです。
 
 草々
 
 ※2018年5/15の午後6時過ぎに、緑スターがついているのを確認いたしました。なので、折を見てですが、シロクマの屑籠側からリンクする日が来るかと思います。よろしくお願いいたします。
 

隠居さんへ

 
ネットにおける自由とやら - 「隠居」
 
 こんにちは、隠居さん。シロクマです。
 
 いきなりシロクマの屑籠で返信してしまうと面倒っちいことになってしまうかもなので、こちらで、手短に。
 
 ご指摘のとおり、リンクいただいた記事は第一に「私のインターネット」の話です。ネット上の振る舞いに拘束力を感じる人もいれば感じない人もいるでしょう。というか、たとえばはてなブックマークで何かモノ申す人の大半は、私が論じている問題を問題として意識する「必要が無い」のではないかと思っています。
 
 差し迫った必要がある人と、必要が無い人では、インターネットに対する構えは違ってきますし、それを論じた話への温度も違ってくるかと思います。それは人それぞれであり、人それぞれのポジションに基づいた見地とも言えますね。もう一歩進んで、「それはシロクマのポジショントークだ」と言われたら、はい、そうですが何か、と開き直らなければならないところはあるでしょう。あるいは、かつてコンビニ店長という人が曝されていた状況についても、あの人の曝されていた状況というポジションにまつわるお話なわけで、実際にそのような文脈を共有する必要のない人のなかには、どこまで行っても「知らんがな」で済ませる向きがあるのは致し方ないことでしょう。
 
 ま、そんなことはさておいて、私には夢がありましてね。
 
 私は、社会と社会における適応の現状を、もっと自由に論じたいと思っていたりするのです。そんなことができるのかどうか、自分の頭と寿命と星の巡り合わせのなかでチャンスがやって来るのかどうか不明だけど、「社会ってのは、本当はこんな風になっていて、今日の日本人の適応はかくかくしかじかの理由でできあがっている、日本の衰退も、それを土台として起こっている当然の帰結である」ってな話を出来るだけ真面目にやりたいのですよ。
 
 だけど、社会と社会における適応の現状、私が見ているやつと、世間の人が論じているやつ*1には大きな乖離があって、私が見ているやつって本当はおくちにチャックな案件なのかもしれません。私は、私が社会をウォッチしている対人・対物レンズが映し出していることを、そのまま書いたら過去のコンビニ店長という人に近い境遇に追い詰められるのではないかと、いくらか懸念しています。
 
 言い方を換えれば、最近、私が社会や人間をウォッチしていることや考えていることは、世間一般(それこそ、インターネットの不特定多数が形成する正論や世論)からは許容されない、忌み嫌われるものではないかと、自分のことを疑っているということです。だから私は、今日のインターネットでは、意識を働かせて、正論や世論から逸脱しないよう、逸脱するとしてもし過ぎないよう、神経を働かせておかなければならないのだと思っています。でもって、これが疲れるものだから、前に比べてインターネットをやりたいという気持ちが減りました。自己検閲に割かなければならないエネルギーが本当に増えたのですもの! 正論や世論やはみ出さない人や正論や世論をはみ出したことを主張したがらない人は、こういうエネルギー損耗のたぐいに直面しないので、あいつ何言ってるんだ? 程度にしか思わないでしょう。 それか、正論や世論から逸脱しているおまえの頭が悪い、ぐらいに考えるか。
 
 だけど、少なくとも現在の私は、インターネットを行儀良く続けなければならないのです。それがシロクマのブログ大戦略ってやつですから。リテラシーの帳尻合わせにエネルギーを損耗させながら、ついでに自分の書いた記事にやすりがけをしながら、インターネットを続けていく。馬鹿げたことのようにも思えますが、まだ自分は、インターネットを(そしてインターネット人生をも)やめるわけにはいかない。だからつとめていきたいと思っています。隠居さんについては、現れたり消えたりを繰り返しつつ、何らかのかたちでコンタクトがとれるような状態が続いていけたら嬉しいなぁと個人的には願っております。
 
 どうかお健やかで。
 

*1:つまり、もしかしたら私に似たものを見ているかもしれないけれども今日の秩序のなかでは論じてはいけないから論じていないだけである可能性も疑われます

シロクマ(熊代亨)の著書