"能力主義の倫理は、勝者のあいだにはおごりを、敗者のあいだには屈辱と怒りを生み出す。こうした道徳的感情は、エリートに対するポピュリストの反乱の核心をなすものだ。ポピュリストの不満は、移民やアウトソーシングへの抗議以上に、能力の専制に関わっている。こうした不満にはもっともな理由があるのだ。
公正な能力主義(社会的地位は努力と才能の反映であるとするもの)の創造を執拗に強調することは、われわれの成功(あるいは不成功)の解釈の仕方に腐食作用を及ぼす。つまり、彼らの成功は彼ら自身の手柄であり、彼らの美徳の尺度だと考えるように──そして、彼らよりも運に恵まれていない人々を見下すように、と。
能力主義的なおごりは勝者の次のような傾向を反映している。すなわち、彼らは自らの成功の空気を深く吸い込みすぎ、成功へと至る途中で助けとなってくれた幸運を忘れてしまうのだ。頂点に立つ人びとは、自分は自分の手にしている境遇にふさわしい人間であり、底辺にいる人びともまたその境遇にふさわしいという独りよがりの信念を持ちやすい。これは、テクノクラート的な政治につきものの道徳的姿勢である。
運命の偶然性を実感することは、一定の謙虚さをもたらす。「神の恩寵がなければ、つまり幸運な偶然がなければ、私もああなっていただろう」と感じられるのだ。ところが、完全な能力主義は恵みとか恩寵といった感覚をすべて追い払ってしまう。共通の運命を分かち合っていることを理解する能力を損ねてしまうのだ。自分の才能や幸運の偶然性に思いを巡らすことで生じうる連帯の余地は、ほとんど残らない。こうして、能力は一種の専制、すなわち不当な支配になってしまうのである。"
第一章 勝者と敗者、P40~より
”テクノクラート的な能力は、統治手法として成果を上げられなかっただけではない。市民的プロジェクトの幅を狭めてしまったのだ。こんにち、共通善は主に経済的な観点から理解されている。共通善は、連帯感を育んだり市民の絆を深めたりすることよりも、GDPで測られる消費者の嗜好を満足させることに関わっている。これでは、公的言説が貧弱なものになってしまう。
近ごろ政治的議論として通用しているものは、次のどちらかから成っている。すなわち、誰の心にも響かない、偏狭で、経営者的で、テクノクラート的な語りか、さもなくば、聞く耳を持たない党派的な人びとの話のかみ合わない怒鳴り合いか。政治的な立場にかかわらず、市民はこうした空虚な公的言説にいら立ちと無力感を覚えている。活発な公的議論がないからといって、政策が決定されていないとは限らないことを彼らは正しく感じ取っている。単に、公の目の届かないどこか別の場所で決定が下されているにすぎないのだ。決定を下しているのは行政機関(規制対象の業界に取り込まれている場合が多い)、中央銀行や債券市場、選挙献金で官僚への影響力を買っている企業のロビイストなどである。
だが、それで終わりではない。テクノクラート的能力による支配は、公的言説を空洞化させたばかりか、社会的評価の条件を再構成してきた。そのあり方は、資格を有する知的職業階級の威信を高める一方で、大半の労働者の貢献を見くびり、彼らの社会的な地位と評価を損なうものだった。現代の険悪で二極化した政治の最も直接的な原因は、テクノクラート的能力のこうした一面なのだ”
第一章、勝者と敗者、P46-47