シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

【ブログ=金儲け】みたいな空気と戦っていこう(旧)

 
 「ブロガー」という言葉は、十年前と今とでは大分違う。
 
 どちらもまあ、馬鹿なことをやっているネットのお調子者というのは違わない。だが、どういう馬鹿なのか、どういうお調子者なのかについては、だいぶ気色が変わってしまった。
 
 「俺はブロガーだよ」と名乗ると、今はどう思われるだろうか。
 
 「ネットに読みやすい文章を書いて金儲けする人」というイメージが、今ではあるのではないだろうか。
 
 実際には、金儲けしたくでブログをやっている人間なんて全体のなかの少数に過ぎないわけだが、声の大きな人達のご活躍によって、ブロガーという言葉には、マネタイズの色彩がすっかりと染みついてしまった。これは、たぶんユーチューバ-とかニコ生主とか、そのあたりにも言えることだろうけれども。
 
 資本主義社会の歯車に、ブログというもの、動画配信というもの、インターネットというものが組み込まれていけば、そこにお金が還流していくのはわかる話だし、それは決して悪いことではない、はず、なのだろうと私も自分のアタマではわかっている。
 
 しかし、私は馬鹿は馬鹿でも素人ブロガーという種類のお調子者なので、自分がブロガーと名乗る時に、他人から「あーネットでお金儲けしてる、あのカテゴリの人種っすねー」という風にみられるのは心地良いものではない。
 
 かくなる上は、この、ブロガーという言葉に染みついた「ネット☆ビジネス」じみたイメージを、飛んできた火の粉として払い除けなければなるまい。これは、世間に向かって体当たりするに等しい愚行のような気がしなくもないが、今後私は、素人ブロガーの一人として、「ブログ=金儲け」みたいな世界線を改変するために自分にできることがあったらやっていこう、と思う。
 
 

「サロン=金儲け」もなぁ……

 
 ちなみに、ここ数年の諸々で「サロン」という言葉も随分とカネ臭い気色を帯びるようになってしまって、安易には使いづらくなってしまった。
 
 実は私は、何年も前から、ブロガー同士の内緒の交流場として「ブロガーサロン」みたいなものをつくりたいなと夢想していた。もちろん、ブログの執筆スキルの伝授とかコンサルなんていうものではなく、対等なブロガー同士が対等な立場で意見交換できるような、そういう場としてのサロンをつくりたかった。実際には、公私ともに自分自身が忙しすぎて、到底、そんなものはつくれなかったわけだけれども。
 
 しかし、そうこうしているうちに「サロン」という言葉は、少なくとも今日のインターネットの文脈においては「ノウハウのあるブロガーが新米ブロガーに何かを授けるのと引き換えにお金を徴収する場所」的な意味合いになってしまった。あるいは「お金を対価として相談を受けたり、有名ブロガー(笑)と直に会うチャンスを得たる場所」か。
 
 なんにせよ、今「ブロガーサロン」なんて開こうとしたら、たちまちそういうものだと思われてしまうだろう。
 
 私は、対等な立場でもって話し合えるだけの意志と能力を持った老若男女が集まれる場所として「ブロガーサロン」を夢見ていたわけだが、こうなっては、諦めるしかない。もし、私がそういう場所を作るとしたら、名称は「サロン」ではなく「結社」とか「秘密組織」とすべきだろうか。
 
 いやまあ、そんな場所をもうけるまでもなく、twitterはてなブックマーク、その他色々でもって、懇意なブロガーやネットアカウントとは相応に繋がっているのだから、わざわざ労力を払う必要などないのかもしれないが、本当は、そういう内緒の集いを作りたかったし、そこに「サロン」という、人によって華やかにもバカバカしいものにも聞こえるような、ちょっと自嘲が必要な名称をつけて「俺、シロクマは秘密のブロガーサロンの一員なのだ!」とか言いたかったのだと、最近気づいたので、こうして、インターネットを汚染する文章を嘔吐してしまった次第である。
 
 (この文章はキュレーションサイト騒ぎが起こる前に書いた。今読むと、この文章もこれはこれで牧歌的なモノの見方にみえる。インターネットの風速は、いつも早くて移ろいやすい)
 

コピペの時代

 

 
はてなシティ大字はてな村6丁目の、うらぶれた居酒屋で聞こえてきた歌】
 
 
 乾杯をしよう 若さと過去に 苦難の時は 今終わりを告げる

 血と鋼の意思で 敵を追い払おう 奪われたネットを取り戻そう

 コピペブログに死を! ネット殺しの悪党 討ち破った日には飲み歌おう

 我らは戦う 命の限り やがてソブンガルデに呼ばれるまで

 それでもこのネットは我らのもの 今こそ取り戻せ 夢と希望を
 
 

《香菜、頭をよくしてあげよう》について今更気づいたこと

  

香菜、頭をよくしてあげよう

香菜、頭をよくしてあげよう

 
 ふと、目が覚めて気付いたことを書く。
 (気付いている人は気付いていることだと思うので目新しい話ではないのでご容赦を)。
 
 筋肉少女帯の《香菜、頭をよくしてあげよう》は、サブカルに詳しい「僕」が「無邪気」で「犬以下」の香菜に、カルトな映画や泣ける本などを教えてあげて頭を良くしてあげよう……というキツい歌だ。うわー、サブカルな「僕」ってひでえ奴だなー、でもこういう男子っているよなー、とか思っていた。
 
 が、今朝はそこに目が向かなかった。
 
 ふと目が向いたのは、「僕」が「香菜が生きていくことに怯えないために」頭をよくしてあげようと言っているところだ。
 
 香菜自身は、無邪気に笑ってジャムパンを食べているような人だから、生きていくことに怯えているようにはみえない。少なくとも現段階ではそうだ。だが、「僕」は生きていくことに怯えるというワードが想起されるぐらいには、生きていくことに怯えている。そうだ、怯えているのはこの「僕」なのだ。
 
 「僕」は香菜のなかに「生きていくことに怯えている自分自身」を投影*1しているのではないか。
 
 そうやって考えると、サブカルをやって頭をよくしようとしている「僕」がサブカルをやっているのは、生きていくことに怯えないように=生きていくことへの怯えを少しでも減らすため だったのではないか。
 
 ここまで考えると、女子にサブカル知識をうんちくたれて「彼女のため」などと言っている「僕」が、気の毒になってきた。
 
 「サブカル男子にうんちくを押し付けられる女子」が気の毒なのは確かだが、「生きていくことに怯えないために頑張っているサブカル(あるいはオタク、マニアでもいい)」というのも、それもそれで凄絶だ。
 
レティクル座妄想

レティクル座妄想

 

*1:投射

中年男女は魔法少女にはなれなくてもジェガンには乗れる

 

僕たちはガンダムのジムである

僕たちはガンダムのジムである

 
 むさくるしい中年、うらぶれた中年が、フリルをひらひらさせた可憐な魔法少女になることなどできはしない。なろうと願うのもおこがましい話だ。
 
 だが、ジェガン乗りならどうか?
 
 ジェガンもまた、魔法少女と同じく、燃えて消えていく儚いものだ。個性があるのか無いのかわからないフォルムは「特別な私」願望を抱いてやまない人には魅力的ではないかもしれないし、いつだったかのテレビCMで「量産機になるな」などという呪詛が流れる現代社会ではあるが、まぎれもなくジェガンは社会を回転させるユニットであり、地球連邦のワークホースであり、つまり、使い捨ての魔法少女と同じく世界を動かす原動力だ。
 
 あえて区別をもうけるなら、魔法少女は世界を変え得る存在だが、ジェガンは専ら世界を存続させる存在だ。だが、魔法少女ジェガンに貴賤の違いなどあるだろうか。
 
 「私は信じぬよ、ニュータイプなどという存在は。」
 
 細かいことを言えば「俺だってジェガンに乗りたかったのにジムIIIをあてがわれた」「マラサイに乗っているうちに、テロリストの下僕になっていた」といった違いはあるかもしれないが、とにかく、世界のフロントラインを支えているのはエスパーめいた若い連中ではなく、中年期のパイロットが乗った量産型モビルスーツの大群である。スーツ姿の大群を見ていると「社会の歯車」などと自嘲すべきではなく、「歯車が、社会だ!」と吠えたくなる。魔法少女にできないこと、ニュータイプにはこなせないことを、量産機の大群がこなしてみせる、そうだ、シン・ゴジラに登場した大人達のように。戦え!中年!戦え!ジェガン
 
 「連中は早い!この、大型ジェガンタイプでは駄目だ!」
 

 

ブログとヌード

 
 
 よく、女性アイドルや女優について「どこまで脱ぐか」「体当たりの演技」みたいな話題が出てくる。脱ぐことによって注目度が上がったり、人気が変化したりするけれども、タレントイメージが変わるおそれもあるから、「ただ脱げば良い」ってものではない……といった話を耳にもする。
 
 たぶんブログも同じだ。いや、ニコ生主とかユーチューバ―も同じかもしれない。“脱げば”注目度があがる。人気も出るのかもしれない。だけど、脱いだことによって失われるもの・変質するものもある。だから「ただ脱げば良い」ってものとは到底考えられない。
 
 いちおう断っておくが、ここでいう“脱ぐ”とは服を脱いだ姿をネットに曝すっていう意味ではなく、比喩としての“脱ぐ”だ。“脱ぐ”に含まれるものには、プライバシーが含まれるかもしれないし、偏った性癖が含まれるかもしれないし、ときには政治信条も含まれるかもしれない。ただ、間違いないのは、
 
 1.“脱ぐ”ことによって人気を稼ぐ方法は沢山ある
 2.だけど“脱ぐ”手法を乱用すれば、そのアカウントのアカウントイメージが変化してしまう
 3.一度脱いでしまったら、誰かがそれを記憶し続ける
 
 ということ、だ。
 
 だからなんにも考えずに“脱ぐ”手法を繰り返していると、自分でも気づかなかった方向にアカウントイメージが変化してしまって、自分自身でもコントロールが困難に陥ってしまうことがあり得る。少なくともインターネットの過去事例を振り返る限り、“脱いで脱いで脱ぎまくって”どうしようもなくなってしまったアカウントというのはいる。
 
 “脱いで”注目を集める手法は、PVや承認欲求がどうしても欲しい時には、魅力的な手法に違いない。妙齢の女性に限らず、おじさんやおばさんでさえ、“狙って脱げば”十分すぎるほど効果が出る。【炎上→即PV】な昨今は尚更だ。だからこの話は、アカウントに注目を集めたがっている老若男女すべてに適用できる。
 
 ただし、“脱いで脱いで脱ぎまくって”注目を集めようとする人よ、やり過ぎるのはやめたほうがいい、やるなら計画的に、せいぜいパンチラぐらいに留めておきなさいな。これから先ずっと「私は全裸告白アカウントとして天寿を全うする覚悟です!」というのでない限り、それはやめたほうがいいし、仮にそのつもりがあるとしても、あれこれの危険をはらんでいることを予測しておいて欲しい。
 
 “脱ぐ”に限らず、人前に何かを表出するという行為・記録媒体上に投げかける行為は、必ず未来を産み出す一因子になっていく。だから本当は、ネットのような、誰彼かまわず記録し、露出し、読み取るメディアというのは、人の手に余る代物なのかもしれない。それでも私達は、twitterやブログやSNSを手放せず、“脱ぐか”“脱がないか”の決定を不断に迫られて、懲りるところが無い。ネットで調子こいているアカウントは、私も含め、なんと愚かなのだろう!
 

『精神医学の古典を読む』グッデン教授によるルートヴィヒ2世、鑑定のくだり

 

精神医学の古典を読む 新装版

精神医学の古典を読む 新装版

 
 

 神経質で自閉的で、夢想に耽り、宴会でも会話を嫌い、別荘の若い家臣に裸踊りをさせ、臣下とも滅多に会わず、ときどき幻聴があるらしく独り笑いをし、聖樹と称するものを植えて礼拝し、興奮してうろうろ歩き回り、ドイツ皇帝の胸像に唾を吐きかけ、罪もない何人もの臣下を重い刑に処し、別荘を爆破せよとの奇妙な命令を出し、バイエルンプロイセンに売ってその金で海外に新しい国をつくる計画を立て、重要文書に目を通さず臣下と扉越しにしか話さず、食卓の行儀が悪く不眠のため睡眠薬を常用しているというような行状から、グッデンは、偏執症(パラノイア)で治る見込みはないと鑑定した。 (同書P81、うたかたのグッデン より)

 グッデン教授はミュンヘン精神医学が大発展していく時期に師匠筋だった人、国立大学の教授だったこともあって精神を病んだ王の鑑定をやることになった。とりあえず上記フレーズは、なんとも味わい深い、なるほど、これは狂王だ、という感じが漂っている。ちなみにここにあるパラノイアは遠い昔の言葉の意味で、21世紀に言われるパラノイアとは指すものが違うのでご注意を。
 

シロクマ(熊代亨)の著書