シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

自意識の間欠泉の儚さについて

 
 ときに、インターネット上で自意識の史跡名勝をみかけることがある。
 
 例えばテキストサイト時代の精神*1を今に伝える文化遺産的アカウントであったり、自意識を定期的に吹き上げる間欠泉だったりする類だ。手をかざして暖まるだけで心が温まってくるような、そういうブログやウェブサイト。
 
 しかし、そうした史跡名勝も、観光化・コンテンツ化されると先が短い。テキストサイトの最も駄目なところを凝縮したようなアカウント、自意識の間欠泉のたぐいは、その自意識の強さゆえに、【観察する者-される者】的境遇によっていとも簡単に影響される。まあ、そうやってまなざしに晒され、一本釣りされた後の鰹のようにビチビチと跳ね回る風景もまた乙なものではあるけれど、そういった跳ね回りによって、またとない自意識セカイ遺産が消えてしまうのではないかと思うと、ドキがムネムネする。
 
 とはいえ、モンスターめいたアカウントが、ネット都大路のど真ん中で、白昼堂々、自意識の胞子をまき散らせば、人が集まってくるのも道理だし、相応のリアクションがあるのも仕方の無いことではある。ということは、その筋の自意識の間欠泉とは、儚いものということでもある。今、その瞬間しか楽しむことのできない、旬の肴。夏の花火。
 
 ああでも、桜の花でさえ一年中咲いていたらつまらないし、夏の花火がいつまでも空に張り付いていても困る。同じような理屈で、ネットの自意識間欠泉も、じきに消えていくとわかっているからこそ、愛でたい気持ちが湧いて来るのかもしれない。
 
 

*1:それも、いちばん駄目な

シロクマ(熊代亨)の著書