シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

節制を欠いた執着は、悲しいものですね

 
 はてな村奇譚32 - orangestarの日記
 
 今回もまた、娑婆世界の理に触れる思いで「はてな村奇譚」を拝読した。
 
 この「はてな村奇譚」シリーズって、ローカルなネットコミュニティにしか適用できない話も幾つかあるけれども、ネット全体、娑婆世界全体に該当しそうな説話も結構ある。今回の「なんでアクセスアップできないんだ」話もそうで、人間を描いている感があって楽しい。
 
 人間の執着って難しい。
 
 一度アクセスアップを夢見てしまうと、アクセスアップできない時には、その執着がなかなか捨てられず、フラストレーションに打ちひしがれてしまう。よしんばアクセスアップに成功してもそれもそれで大変で、メディアのお立ち台に立ち続けても心が濁らないのは、ごく一握りの選ばれた勇者と、耐性のあるモンスターだけだ。ネタが尽きてPVが減り、それがためにかえって心が濁っていく人も少なくない。
  
 どちらにせよ、大きな執着を抱き、その執着を充たすために自然体以上の何かを必要とする時には、焦りや苛立ちや疲労が生まれる。周りをギョロギョロ眺めている人の場合は、嫉妬すら生まれるかもしれない。だから、この問題において重要なのは、PVを増やせるかどうかではなく、抱えている執着のサイズと自分自身が無理せずに達成できる自然体のサイズのギャップの大小、という事になる。
 
 だから、20万PVだろうが30万PVだろうが、それを自然体で達成している天然モノの人*1はともかく、背伸びや無理をおしてやっている人は、必ずどこかで弱ってくる。あくまでそれを一時的手段と割り切って、自分自身が衰弱してしまう前に“使い切って”しまえばいいのだが……。
 
 逆に、アクセス数が小さなブログでも、アクセス数に執着していなければ、精神的に追い詰められるなんて事は無い。ある日、そうした小さなブログの主がアクセスアップに目覚めてしまったら、その日から精神的疲弊が始まるかもしれないけれども、欲しがらなければ心が濁るなんて心配はしなくていいし、そもそも、なんでアクセスアップしなければ心が濁る人がいるのかが、彼/彼女には理解できないだろう。
 
 このことは、アクセスアップに限らず、仕事や趣味の分野にもある程度当てはまる。
 
 何事につけて、苦労せずに持続できる活動はいつまでも続けられるが、欲に駆られるあまり、背伸びや無理を続けると、人間は肉体的にも精神的にも伸びきったゴムのようになってしまう。もちろん、背伸びや無理がいけないと言いたいわけではない。そうしなければ達成できない事は沢山あるし、苦労もせずに持続できる水準を拡張していくためにも背伸びは必要だ。けれども、いつも・いつまでも背伸びをするのは良くない。
 
 私も、このあたりは昔いろいろと意識し過ぎて、疲れてしまった時期があったので、他人事という感じがしない。自分の能力や精神的傾向と、自分が望むもの・自分が手に入れようとするもののバランスを取るのは、ぜんぜん簡単ではない。ところが、このバランスを度外視して、ただ欲しがり続けてばかりでは、いつまでも渇きの境地を逃れられない。むろん、「みんな渇いて藻掻いていたほうが都合がいいのさ!」という向きもあるだろうけれど、私は自分の幸せが第一だと思うので、欲求を単純に追いかけるよう煽る声には従いたくないと思う。
 
 私は、人間の幸福条件、もう少し控えめに訂正するなら人間の不幸軽減の条件として、節制の問題、欲求サイズのコントロール問題は必須だと思っている。ところが、そういう話は人間の欲望を刺激しないせいか、景気の良い界隈ではいつも脇役扱いされている。けれども、欲を追いかけることと、欲を節制することは、人間幸福の両輪だと思うので、片方だけにとらわれるのではなく、両者の折り合いをつけることがとても大切なはずだ。
 
 で、それが出来ない人間の末路がこうなるわけか。
 
はてな村奇譚33 - orangestarの日記
 
 これもブログだけじゃないよね。
 欲に駆られた人間の哀しさ。
 
 思うに、インターネットには節制を勧める場所があってもいいんだと思う。御本尊は何がお似合いだろうか。いっそ自分で作っちゃおうか。しかし、欲にまみれた私がそれをやるのもなぁ。
 
 飽きてきたというより、疲れてきたので今日はこのへんで。
 

*1:もちろんきわめてレアなタイプの人である

シロクマ(熊代亨)の著書