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シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

「どうであるか」を書くことと、「どうすべきか」を書くこと

 
 

 
 今日の夕方、私はこのような呟きを行った。かつて恋愛至上主義やコミュニケーション至上主義を批判していた「非モテ論者」の批判対象になっていた私が、今では似たようなことを考えていること、そして「非モテ論者」の多くがネットからいなくなってしまったことを詠嘆したつもりだ。
 
 これをリツイートした
  
 このような呟きを見かけた。これを読む限り、
 
 1.シロクマが本を売るためにスタンスを変えたと思っている人が存在するのは、理解できることである
 2.社会学的ポジションはクソだからロクなもんじゃないですよ
 
 という意味だと類推する。
 
 そうか、他人にはそういう風にみえるのか、と意表をつかれた気持ちになった。このような見方をする人が世の中に存在することを失念していたのは、私の想像力不足だったなと思った。
 
 まず、2.について。社会学なるジャンルが世間一般においてどのような位置づけをされ、どのように評価されるのかを慮った発言と思われるけれども、私は高いポジション*1とやらが欲しくて社会学的なものに親しんでいるわけではない。ただ単に、社会学的な諸々が面白くて面白くてたまらないから追いかけているだけだ。社会学なるジャンルの位置づけの高さ目当てに社会学に手を伸ばしたのではない。
 
 同じく、精神分析の過去の人々を掘り起こす旅も、私は面白くて面白くてたまらないからやっている。精神分析系の考察の21世紀における位置づけは、はっきり言って低い。精神医学においては勿論、心理学領域でも、ウエイトは小さくなっているので、時代錯誤だと見做す人も多かろう。けれども私はこれが好きだし、対人関係全般の、エビデンスに基づく論考ではどうにも歯が立たない現象と向き合うにあたっては、まだまだ参考になると思っている*2
 
 世間の評価のために自分の読む本・学ぶ本を決めるという人もいるのかもしれない。けれども、そんな人が世の多数派なのだろうか?私はそうではない。そうではないから、私は、世間の評価のために書籍や学問を変える人がいるかもしれないことを、すぐに想起できなかった*3。私個人としては、自分が好きでもないジャンルの本を、世間なるもののために必死で読むのは辛くて空虚なことだと思う。
 
 続いて、1.について。
 
 2.に似ていて、私は、本を売るために自分の思っていることを捻じ曲げる気は無い。そんな事をやれば、魂が汚れてしまうからだ。自分が今思っていること、自分が関心をもっていることをせめて70%程度反映させなければ、本なんて書けない。プロな人達からみれば、関心をもってない領域の事を書けないようではダメかもしれないが、現在の私は、本を売るために自分の魂や関心を売ることはできない。そんな事をやれば拷問になってしまうだろう、2000字ぐらいしか続くまい。
 
 それはそうとして、私は娑婆世界について「どうであるか」の問題と「どうすべきか」の問題を分けて考えてきた。2006年頃のブログ記事を読み返すと、それがよくわかる。このうち、娑婆世界が「どうであるか」については、今も昔も世界観はあまり変わらない。仏教的には言えば、ひたすら因縁の連なりがどこまでも続いていて、地獄道~天道の六つの道(六道)に例えられるような諸相が形成されている。進化理論的に言えば、自然淘汰と性淘汰とヒト固有の社会性に基づいた生物学的/社会的ニッチの移ろいがどこまでも続いている……と表現したくなる。
 
 「どうであるか」の凝視は、昔からずっと続けているし、今も続けている。まだまだ凝視し足りない。
 
 ただ、「どうすべきか」について、過去の私は個人がどうすべきか、せいぜいオタク*4の社会適応の方法までしか視野が広がっていなかった。これが、当時の「非モテ論者」との意見の相違を生み出していたことが、今は懐かしい。
 
 ところがブログを書いているうちに、マクロな社会全体の「どうすべきか」にも関心を持つようになってきた。「非モテ論者」からの影響もあったかもしれない。娑婆世界の現象には、ヒトの生物学的性質によって不変の部分もある反面、文化的に形成された傾向、イデオロギーによって形成された気分、といったものに由来するものもかなりあると知った。
 
 個人の適応は社会の状況によって大きく影響を受けるし、社会の状況は個人の適応の連なりによって形成されている――だから、どちらか一方だけを知ろうとするのは片手落ちだと今は思う。少なくとも、個人の適応を考えるにあたって社会から蒙る影響は考えなければならない。そして、社会から蒙る影響なるものが改変可能な余地を含み、なおかつ個人の適応に影響を与えている場合には、その影響がどのようなもので改変に必要なものが何なのか、その影響が過去と現在とでどう違っているのか、なるべく知っておきたいと思う。
 
 私は「どうであるか」を踏まえて「どうあるべきか」の暫定解を考えるようになった。おかしいと思うことはおかしいと言いたい、と願った。私は書籍を書く機会を得た。せっかく得た機会なんだから、「どうであるか」だけでなく「どうすべきか」についても今書けることは書きたい。今書けることはたかが知れていて、誤りも含んでいるだろう。それでも、自分の思うところをぶつけてみたいと思った。今も思っている。世評は、私がどうこう出来るものではない。
 
 ありがたいことに、ブログはもちろん、各出版社の編集者さんは、私が書きたいことを書きたいように(商業出版の枠組みを逸脱しない範囲で)書かせて下さった。むしろ私は、自分が書きたいことを書き過ぎてしまったのではないか、とさえ思っている。
 
 ただ、これまでの経緯や今回の件から想像するに、私は世間受けなるものを狙ってできるような人間ではないと思う。たぶんだけど。
 
 
 【今後の方針】
 
 今後の方針は変わらない。「どうであるか」と「どうすべきか」の両方について、現代日本人の社会適応を追求し続けるだけだ。そのための材料は、すべて関心の対象になり得る。ミクロな個人の社会適応について私はまだ全く書き足りなくて、ノートにはたくさんのテキスト片を書き溜めているけれども、これをまとめるには絶対的に時間が足りない。繋ぎ合わせるための勉強も足りない。長い時間が必要だと思う。
 
 それはそれとして、今思ったことはブログに書いたり、書籍にまとめたりしたいな、とも思う。書くという作業、それをネットに曝す作業は、自分の思念をまとめるにはとても向いている。問題意識を浮かび上がらせるにも適している。これからも続けたいところだ。
 

*1:社会や学問世界において高い評価を得る領域、という意味だと類推する

*2:精神分析という技法は、明らかにユーザーの素養や執着の在処によって有効性が左右される。ユーザーの素養や執着の在処とは全く縁の無い技術の領域とは、ここが違っている。再現性が乏しいのも当然と言うほかない。ユーザーとクライアントの性質によって結果や成り行きが変わることを前提としているのだから。しかし対人関係の領域では、技術という語彙に合致するような「再現性が必ず期待できる手法」だけでどうにかできることは限られている。医療の水準ですらそうなわけで、娑婆を生きている野生の人間同士のやりとりにおいては、そのような“読み”は精神分析か否かを抜きに、万人によって営まれている。精神分析的思考とは、そのような“読み”の、壮大でかび臭い一流儀だと思う

*3:今、考え直してみると、サブカル的な「差異化ゲーム」の一環として本を選ぶ人なら、そういう事もあるのかもしれない、と思った。

*4:ここでいうオタクとは、当時はまだ隠れオタクをやらなければならなかった、キモがられる心配を抱えていたところのオタク、である。

シロクマ(熊代亨)の著書