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シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

個人それぞれの魔術回路の取り扱いについて――その原則についてのメモ

 
 ひとつ前のまとまらない文章の続きとして。
 これもまとまりが無く、俺定義な言葉だらけな文章なので、自分自身の下書きとして。
 
 
 
 人間の普遍性について注目するのでなく、人間の個別性や生まれや育ちの(統計学で言う)分散に着眼するなら、人間それぞれの社会適応の鍵になる“やりかた”は人の数だけ違う、という話になる。
 
 汎用性の高い社会適応の“やりかた”と言った時、一般には
 
 1.技術(テクネー)と呼んで差し支えない、普遍性が高く顕学として学習しやすい領域(例:礼法、マナー、TPO、金銭管理ノウハウ等)
 
 が連想されるかもしれないが、個別の人間が個別の社会適応をバッチリこなしていくための“やりかた”としては、そんなものだけでは不十分だ。それよりも、
 
 2.技法(アート)や魔術と呼ぶほかない、個別性が高く顕学として学習しにくく、生まれや育ちの事情を前提としていなければならない領域(例:性格、嗜好、男女関係、コミュニケーション等)
 
 があって、実のところ、2.のほうが個人の社会適応を大きく左右するのだろうと思う。みんなが技法や魔術を語らないのは、それがどうでもいいではなく、それが語りえないから・一般化できないからでしかない。
 
 2.は、コミュニケーション分野と活動領域/学習領域の選択とりわけ強く顕れる。
 
 発達障害などという言葉を用いるまでもなく、人間個人の認知と、その認知に導かれた言語的/非言語的コミュニケーションの様態はさまざまだ。同じ日本語を話しているから認知も同じに違いない――などというのは目の粗い近似に過ぎず、現実どおりではない。他人の言葉に耳を澄ませる時、気を付けていればわかる。選ばれる語彙の違いだけでなく、音韻の癖、トーンの抑揚、そして(日本語の場合とりわけ顕著だが)語彙の並べ方 etc...から、話者の頭のなかで起こっている出来事が、私の頭のなかで起こっている出来事と異なっているさまを伺うことができる。
 
 例えば、早口かつ平板な語調で「『まどかマギカ』の最終話がよくまとまっていた」と語る視聴者Aと、“よく”に強いアクセントを置いてゆっくりとした語調で語る視聴者Bとでは、吐き出される言語メッセージは同一でも、最終話を観て頭のなかで湧き起っている現象はどこか違っているだろう(当たり前だ!)。それはアニメ視聴の歴史の違いに由来する部分もあるだろうにせよ、ドーパミンの分泌の違いやシナプスの織物の違い等々の、遺伝的/生理学的/形態学的相違をもなにかしら反映している。「よくまとまっていた、『まどかマギカ』の最終話は!」と自然に倒置法的な表現が湧いてくる視聴者Cなどは、さらに違っている。こういったところを真面目に観察すると、脳の情報処理プロセスの個人差・個別性を、少なくとも匂いぐらいは嗅ぐことができる。
 
 このように、言語(とりわけエクリチュール)という曖昧な共通基盤のすぐ外側には、脳の情報処理プロセスの相違性が潜んでいて、普段あまり顧みられていない。だがもし、個人の情報処理プロセスの最適解を見出そうとするなら、平均的に70%の出力を約束する普遍的なメソッドではなく、その個人の情報処理プロセスにしっくり見合って100%近い出力を約束してくれるオーダーメードな解を見つけなければならない。さきの比喩で言うなら、たとえば、視聴者Aと視聴者Cなんかは間違いなく言語的な情報処理プロセスが違うのだから、Aさんの最適解に基づいてCさんが学習すれば、必ず劣化コピーにならざるを得ないし、逆もまた然りだ。そしてAさんとCさんにまあまあ当てはまりそうな世間的平均解もまた、AさんCさん双方にとってピッタリなものとは言い難いものがある。世間的平均解は、なんらカスタマイズされていないジムやザクみたいなもので、役には立つが、カスタマイズされチューンされた道具には(大抵)及ばない。
 
 言語のような堅苦しい領域よりも個人差が大きいのは、「誰を好きとみなし」「どのような人間関係を理想とみなし」「どういうやりとりを目指すのか」にまつわる領域だ。人格・嗜好・価値規範の個人差は、前述の情報処理プロセスよりずっと大きな相違が観測しやすく、世間的にもよく知られている。ここでも例を挙げると、例えば男性αが特定女性との長期的な人間関係に惹かれる一方で、別の男性βは複数名の女性との短期的な人間関係に惹かれたりする。女性の場合も同様で、身持ちの固い男性にしか自ずと惹かれない女性γもいれば、ほとんど運命的にDV的な男性に惹かれてしまい“だめんず”と呼ばれる女性δもいる。
 

夫婦関係の精神分析 (りぶらりあ選書)

夫婦関係の精神分析 (りぶらりあ選書)

 
 精神分析的に考えるなら、こうしたコミュニケーションや活動/学習の(ほとんど無意識的な)選択は精神病理と呼んで差し支えないだろうから、以下、精神病理という言葉も用いていく。
 
 で、この精神病理と呼んで差し支えない個別的性質が、恐ろしくバリエーションに富んでいて。ちょっと旧い表現で言えば、例えば分裂病圏/人格障害圏/神経症圏によって最適なメソッドも路線変更の柔軟性も大きく違っている。これらを一緒くたにしたアドバイスなんて臨床ではあり得なかったわけだ。精神疾患の次元、それもDSMのような操作的診断基準にもとづいた区分になってさえ、同じ病名でも衝動制御力の高低や家族背景によって予後や対応が変わり得る点は、臨床家がつねに気に掛けるポイントとなっている。
 
 ましてや、精神疾患と呼称されることのない広大な領域では、大小の個別的性質の違いがどこまでも存在し、あらゆるプロフィールが似通っている人間はめったに見つかるものではない*1。個別の 遺伝的傾向・家族背景・時代背景・周辺環境に基づき、人間それぞれが誰を好み・どんな風に好み・どうやってコミュニケートしようとするかの個人差は相当に大きく、コミュニケーションの様式や不安の防衛形式の可塑性にも相当な差があると思ってかかったほうが現実に即している*2。言うまでも無く、一般に流通しているライフハックのたぐいには、こうした個別性への目配りは乏しい(し、乏しくあるべきでもある)。
 
 誤解を避けるために書いておくと、ここで精神病理という言葉を使っているからといって、私は、ネガティブな個別性だけを問題にしたいわけではない。当然ポジティブな面も含まれ、ある局面ではネガティブに働く精神病理性が、別の局面ではポジティブに働くということはよくある。几帳面で責任感の強い性格は、ある局面では高い生産性や信用を生み出すけれども、それが仇となってうつ病が重症化するまで働き続けるリスクを生むかもしれない。精神に関連したあらゆる手癖や特質は、ネガとポジを持ち合わせている。そして意識しようがしまいが、個人のコミュニケーションや人間関係や社会適応を規定する一大因子として働き続けている。なにしろ、これによってコミュニケーションの目的や対象すら決定されてしまうのだから、小手先の話術の巧拙などより、よほど決定的である――どれだけ話術に長けた人物でも、そのアドバンテージを(無意識のうちに)地獄のようなコミュニケーションや人間関係に費やしていれば、幸福は砂漠の蜃気楼のように逃げていき、堂々巡りを繰り返しながら年を取っていくハメになる。それもまたその人の幸福と言われてしまえばそれまでだが、このような人物とて、(意識下では)自分の身の上の不幸を嘆いていることは多い。というか、世の中にはそういう話がつねに充満している。
 
 
 【自分を適切に取り扱えるほど、選択肢は広くなる】
 
 だから、自分自身が意識的/無意識的にどのようなコミュニケーション(や選択)を志向しているのかを知ることと、知ったうえで、そんな自分をどうやって操縦していき、どのような方向性に自分自身を育てていくのかが重要になる。「自分自身を育てていく」とは、「自分にとって望ましいかたちの社会化プロセスを踏んでいく」と言い換えてもいいかもしれない。ともかくも、自分の精神病理性、言い換えれば自分自身に不可避的にくっついている魔術回路の取り扱いを究めることが、自分自身の生まれ/育ちの刻印に基づいて最大級のアウトプット性能を追求するにあたり肝要ということになる。そして、そのアウトプット性能を(多少なりとも)悟性や意識のコントロールのもとに置くためにも。
 
 個人それぞれの精神病理性(=個別の魔術回路)の性質をなるべく踏まえて好ましい方向に働かせれば、それは魔術の精華となって顕れる。反対に、自分自身の魔術回路の性質を知ることのないまま、ただ振り回されて生き続ければ、それは呪いの顕現になってしまう。どうせ自分自身からは逃れられないのなら、前者を志向したほうが人生を上手くやり過ごしやすいんじゃないか、というわけだ。
 
 なにせ人間は多様だ。人間の数だけ魔術回路があり、最適解がある。修正の余地や融通性も、人それぞれでまちまちだ。だからもし可能なら、自分自身の魔術回路について出来るだけ多くのことを知り、知ったうえで自分自身の社会適応のかたちをどうするかを見極め、コミュニケーションや活動領域を見定めたほうが良いに決まっている。孫子をひくまでもなく、自分自身のステータス画面を覗いて判断できる人は、(多少の精度の誤差があったとしても)ただそれだけで有利だ。
 
 もちろんこれは簡単ではなく、一般論としては、スタンドアロンな自己分析だけでは自分自身の防衛機制の“灯台下暗し”にやられてしまう。他人の反応、他人とのコミュニケーションを介して知ることしかできない部分がどうしたってある。この「他人越しにしか知り得ない」という条件は大きなボトルネックで、コミュニケーションに癖のありすぎる人は、この条件をクリアできず、自分自身の精神病理性=魔術回路を把握するチャンスが与えられない(他人からのおべんちゃらにだけ耳を傾け、それ以外の情報もすべて我田引水的に曲解してしまう人物を見よ)。逆に言うと、他人の反応――せめて親しい者の反応か真っ赤な他人の反応のどちらかに対して――一定の開放性を持った人物でなければ、自分自身の魔術回路を知ることはできない、とは言えるかもしれない。
 
 そうでなくても、人間個人が自分自身を知り、その知った特質を前提としてコミュニケーションや活動を方向づけていくのは難しい。思春期の後半になってからこれをやろうとしても、既に状況がそれを許さなくなっている可能性もある。だったらどうすれば良いのか――個人の、ではなく家系の、と考えるならば、方法はある。親が子どもの特質をできるだけ把握したうえで、子どもがその特質を生かしやすいように育てれば良いのだ。このために必要な条件もまた、なかなかハードルが高い。親の願望や不安が強すぎる場合には、どうしたって子どもが親の観たいように観えてしまう。しかし、この文章はマジカルな話をしているので、出来ない人のことはひとまず置いておこう。子どもにとって所与の条件となる遺伝的/社会環境的なファクター*3を親が先回りして把握できる場合には、それを意識したオーダーメードな子育てを実施する余地はあるだろう。
 
 落ち着きの無い子には落ち着きの無い子の・意地っ張りな子どもには意地っ張りな子どもの・自己主張の強くない子どもには自己主張の強くない子どもの、“やりかた”はまちまちのはず。もちろん現代精神医学が定義するAD/HDやASDの診断基準をみたす場合には“治療”も必要かもしれない、しかしそれはそれとして、個別の子どもが自分の特質を活かすような方向で社会化のプロセスを経ていくためには、親の関与・その関与の質感・子どもの魔術回路の把握水準などが必ず影響を及ぼすと想定され、それを無視してかかるのは軽率だろう。ときに、医療者や教育者がそうした関与や把握についての助言を与えてくれるかもしれないが、そんなものはあくまで助言でしかない。最終的には、親の判断がモノを言うのが現代核家族システムの原則だ。
 
 そのうえ、親子関係や家庭内の規範意識の在り方そのものもまた、まさに“育ち”として魔術回路の一端を形成し心身にこびりついていくわけだから、一個人の魔術回路をポジティブに開花させるにあたり親の占める役割は小さくない。本当のことを言えば、親以外の年長者の果たす役割も相当に大きいはずだったのだが、現代居住空間に住まう核家族の場合は、どうしても親と子どもの関係のウエイトが大きくなりやすく、規範意識のインストールに占める親の役割のウエイトも肥大化してしまいやすい。
 
 このあたりについては、
 
「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

 
 の後半章にもいろいろ書いたけれども(もちろん魔術回路なんて中二言葉は使ってない)、とにかく容易でないことだけは確かだ。「子供の特質を踏まえ、できるだけ望ましい社会化を取り計らう」と書くのは簡単だし、いかにも常識的だが、実践することの難しいことといったら!
 
 ここではマジカルな話をしているので、出来る確率の高低はやはり置いておく。それより、ここで述べたような話を(意識的か無意識的かは問わず)やっている核家族は確かに存在する、という事のほうがマジカルな話としては重要だ。そのような家庭背景を持ち、なおかつ思春期以降も自分の魔術回路を適切に社会化させ続け、呪いではなく魔術の精華を発揮しやすい状況に保ち続けた人物は、収入の多寡や“外部からみたリア充度の高低*4”にかかわらず、あまり無理の生じにくいかたちで社会に適応し、ほどほどに働いて暮らしている。ネットにはまず出てこないか、出てきても目立たないし出しゃばりすぎない。
 
 ただ、このうまくやっているという表現も微妙で、世の中には、火の車のような人生を歩み衆目を集めながら、それで心理のエコサイクルをまわしてバランスをとっている人もいるわけで、この場合、何が呪いなのか、何が魔術の精華なのか、判然としない。実のところ、魔術回路の所産に呪いと魔術の区別をつけること自体、くだらないことなのかもしれない。ただ、そうした火の車のような人物の場合でさえ、自分の魔術回路をなんらかの形で知り、なんらかの形で制御しているような人物は、自分の魔術回路に無知でアンコントロールな人物よりは、自分自身と運命に流されずに済む余地が大きい。
 
 近代社会の兵士や労働者のような画一性を目指すより、遺伝的なスペックを最大限に引き出すことのほうがポスト近代社会では最終的には重要で、そこを踏まえて社会的椅子取りゲームが行われると推定される……ので、究極的でマジカルな話をするなら、自分や自分の家系の魔術回路を知り、知ったうえで社会化プロセスの効率を極めるのが個人にとっても核家族にとっても好ましいのだろうな、と思う。ネトゲ的に。たびたび書いたように、それは決して簡単ではないし、画一的な教科書を読解すれば片付くような問題でもないけれども、魔術回路の恩恵に浴し呪いを減らすためには、そういう方法論は避けて通れない。なぜなら、何人たりとも自分自身の性向・自分自身という(無意識にもとづく選択も含めた)魔術回路からは決して逃れられないのだから。だったらちゃんと知っておきましょうよ、手なづけて良い方向に飼っておきましょうよというお話(の下書き)。
 
 
 PS:このあたりの話って、精神分析的思考剥き出しっぽく読めるかもしれないけれども、個人的には、
 
魔術から科学へ (みすずライブラリー)

魔術から科学へ (みすずライブラリー)

技術と文明 (1972年)

技術と文明 (1972年)

 
 上記二冊で示唆されているような「時代それぞれにおいて、どのような認識が優勢でどのような進歩が必要だったのか(そして個別的で魔術的なものがどういう社会状況下で幅を利かせ、統計的でマスプロダクト的なものがどういう社会状況下で幅を利かせていたのか)」の話とリンクさせたいんだけど、まだ、ちゃんとは言語化できてなくてメモを繰り返している。あと、
 
複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

 
 このへんは例のアウラの話とも関連しているっぽいけれど、頭のなかでまだスープの出汁が出きっていない。人間が単純労働から解放(というより追放?)されつつある今だからこそ、個別精神病理性(=魔術回路)の運用の話は面白いんじゃないかと勝手に思っているんだけれども。
 

*1:「いない」に近似してしまって構わない

*2:後者は特に、心理療法に際してどこまできわどいところに踏み込めるのかを見据えるための指標として、臨床的には重要なものだった。さきに述べた分裂病圏/人格障害圏/神経症圏という病態水準区分も、それに関連したもの

*3:もちろん親自身の精神病理性=魔術回路の特質もファクターのひとつだ。しかし、親自身が自分のことをよく知っている場合には、親自身の精神病理性は、子どもに顕れるあろう精神病理性を予測する一材料とはなるかもしれない

*4:外観としてのモテか非モテかなど、些末な問題でしかない

シロクマ(熊代亨)の著書