シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

もてない男女のマッチングシステムは?→無理無理、考えるのやめやめ

 
 「結婚できない男女やモテない男女の話があちこちに転がっている。モテなきゃ夫婦にならないのは、まあ、わかるような気はする。でも、昔はそうじゃなかった。お見合いシステムが健在だった頃の「出会い」とは、そういうものじゃなかった。」
 
 「現在の「出会い」には、場そのものが一定のハードルをクリアしていなければ参加できないような雰囲気がある。同性同士のコミュニティならともかく、一定割合で異性を含んだコミュニティに参加するための資格が、「モテ」なのではないか?この、結婚がプライベートかつ個人主義的な結びつきによって規定されがちな社会では、異性を含んだコミュニティに参加できなければ配偶なできようはずがないではないか?」
 
 「もちろんこの疑問には突っ込みどころが色々あって、たとえば、企業への参加には「モテ」は要らないんじゃないかとか、異性をとっかえひっかえできるほど「モテ」なくてもコミュニティには参加できるとか、色々な意見はあるだろう。」
 
 「でも、企業への参加から私的コミュニティへの参加の間には一定の距離があるし、異性にモテモテでなくても、異性に嫌悪されないぐらいのハードルはクリアしていなければならない。ここで必要とされている「モテ」度は、複数の異性に好かれるモテモテレベルではなく、異性に嫌悪されない程度のものだ。まあ、男女によって異性を嫌悪する/しないの判断基準のハードルの質・量は違っているだろうけれど。」
 
 「男女交際の自由市場にたゆたう男女、言い換えれば“花屋の店先に並ぶことを許された花々”とは、一定の「モテ」水準をクリアしたものではないか。“茎の曲がった花に喩えられるような男女”には、そもそも土俵にのぼる権利すら与えられていないのではないか。」
 
 「これまた突っ込みどころの多い疑問ではある。市町村主催のイベントに参加すれば良い等、いろいろな反論が考えられるしそれらはたぶん正しい。でも、そんなにあっさりと参加できるものだろうか?「モテ」のハードルをクリアする/しないの問題は、思春期の後半ぐらいには各人の心に沁みついているもので、世間が許しても内面が許さないことが往々にしてある。」
 
 「ここでいう“内面が許さない”とは、そういったイベント参加への億劫さといった形をとったり、参加したとしても、ある種の申し訳ないような感情や場違いな気持ちといったかたちで現われる。あるいは「モテ」の基準をクリアしているとおぼしき男女を前にした劣等感といった形をとるかもしれない。もちろんそれらは世間からの評価と連続的なものでもあるだろう。ともあれ、「モテ」の基準をクリアしているか否かは、外面やTPOだけの問題ではなく心理の奥深くを含んでいる点に留意しなければならない……。」
 
 
 ここまで書いて、「だったらコミュニケーションの苦手な男女だけが集まって、気後れせずにコミュニケートできるようなシステムがあればいいじゃないか!」と……思いかけたけれども、まさにこれが出来ないから無理なわけで、これ以上考えるのをやめよう、と思った。
 
 今日の「モテない」男女とは、コミュニケーション不全な男女と限りなく等しい。コミュニケーション不全な理由は色々あろうが、対人関係を構築すること、――とりわけ親密な対人関係を築き上げること――に難があればこその「モテない」が殆どだ。同性と親密な対人関係を築ける男女なら、舞台さえ与えられればある程度はマッチングに乗れる。でも、今問題となっている「モテない」男女の多くは、たぶんそうではない。
 
 親密さを築けない者同士がいくら集まったところでマッチングが成立するわけがない。科学で喩えるなら、希ガスのヘリウムとネオンをいくら混ぜても化学反応が起こらないのと同じ。手に手を取り合わない者、取り合えない者の間には結びつきは起こりようがない。
 
 男女の結びつきが(お見合い的なものであれ、いわゆる恋愛結婚的なものであれ)個人の自由選択と自由競争に委ねられた以上、選択できず、選択されず、競争できず、競争しない男女が出てくるのは避けられない。いや、お見合い結婚全盛期でさえ、どうしても売れ残る人は存在したし現代と異なるかたちで「モテ」的な価値基準は存在していた。その価値基準を値踏みする人間が男女当人なのか、それともお見合いオバちゃんや仲人かも違っていたけれども。
 
 じゃあ、男女の結びつきを再びお見合いオバチャンに――今ならコンピュータオバチャンあたりに?――委ねるべきだろうか。そうではないでしょう。元々結婚したくない男女だっているし、ひどくコミュニケーション不全な男女がめおとになって、それで幸せになれるとは思えない。人間は自ら選んだ選択の果てに不幸を掴んでも胸を張れない生き物なわけで、他人やコンピュータにあてがわれたマッチングの果てに不幸を掴めば絶望してしまう。「自由」を胸いっぱいに吸い込んで育った人々については、特にそうだ。
 
 そこまで考えるなら、誰彼かまわず結婚しろ・結婚すべきだ・結婚を強制執行する!なんて不可能ごとで社会の総不幸量はいやがうえにも高まるだろう。それぐらいなら、結婚し子育てする意志と能力を持った人がたくさん生み育て、そうでない人はそうでない人生を歩いていただいたほうが、たぶん不幸度は低くおさまるはずだ。それが良いことかどうかはわからないが、「モテ」度に応じて男女を強制マッチングする巨大なシステムが動いている社会よりは、個人主義との相性は良いはず。
 
 まあなんでもいいや、このへんは誰かがもっと利口なことを考えてくれるんだろう。たぶん。
 

シロクマ(熊代亨)の著書