シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

amamakoさんのような若手ブロガーを見かけない

 
あままこのブログ
 
 これは観測範囲の問題を含んでいるので、不勉強な私に「こんな素敵なブログがあるよ!」って教えてくれる人がいたら嬉しいんだけど、
 
 id:amamakoさんのような、尖ったガラスの破片のごときブログを、ここ2年ほど見かけない。
 
 「若気の至りなブログ」や「痛々しいブログ」なら幾らでもある。ほら、はてなブログ方面を見ればいい。十代~二十代のどころか三十代~四十代まで、新進気鋭のブロガーのうちに「うわぁ……」と讃えたくなるような文章を吐き出して憚らないブログがゴロゴロしている。
 
 ブロガーが恥知らずであることは罪ではない。若気の至りであること、「俺たちって最高!」であることも罪ではない。お戯れの対象とみなされるのは必然だが、それが必要なプロセスという人も多いだろう。私だってそうだった*1し。
 
 だが、かつてのamamakoさん――その昔はrir6、sjs7などのハンドルネームも名乗っていた――のような、メリットやデメリットの計算も行わず衝動の赴くまま(しかし本人は熟考しているつもりである)文章を迸らせるようなブロガーはなかなか見かけない。「触るものは皆傷つけるようなブロガー」「無軌道のまま、目をつむって滅茶苦茶にナイフを振り回すようなブロガー」も見当たらない。
 
 断っておくが、かつてのamamakoさんが「衝動的なブロガーだった」とか、そういう単純な評価をしたいわけではない。
 
 衝動的なブロガーはともかく、衝動的なアカウントならニコニコ生放送twitterに幾らでもいる。だが、そのような衝動的なアカウントは、刃物にたとえるなら鈍器にほとんど近いハンドアックスやブロードソードみたいなもので、amamakoさんに備わっていたような、研ぎ澄まされたサーベルやシャムシールのような切れ味を備えているわけではない。 
 
 サーベルやシャムシールに例えると、当時のamamakoさんが「切れ者」であるかのような印象を与えてしまうかもしれないので補足しておくと、彼はそんな洗練された武器よりも、「使う者自身が怪我しかねない、危ない刃物が四方八方に伸びているような不安定な尖った何か」だった。武器ではなく「尖ったガラスの破片」「切り出されたばかりの黒曜石」と例えたほうが適切だかもしれない。とにかく、尖ってはいるけれども使い物にならず、そういう尖ったアカウントが目茶目茶にネット中二病をかましているような、言語化するとロクでもないような何かだった。
 
 ところが、今日のはてなブログ界隈、いや、twitter界隈などをみていても、かつてのamamakoさんのような目茶目茶なガラスの破片に相当する人はぜんぜん見かけない。
 
 尖った若者アカウント。これはいる。いや、尖ったキャラクターと言うべきか。キャラが立っていて、なんのために・どのように尖っているのかをはっきり意識した若者。本人がはっきりとキャラ立てを意識しているぶん、尖り具合はキャラクターの内側に回収されていて、そのぶん安全でわかりやすい。
 
 中二病的な若者アカウントもたくさんいる。だが、そのようなアカウントにも彼らなりの“計算”や“打算”が見え隠れしていて、「黒ひげ危機一髪」のようなハプニング性がかえって損なわれている。最も上等な水準から最も下等な水準まで、とにかくも“計算”や“打算”、政治的配慮、コミュニケーション、といったものを意識しているから、良くも悪くもそれらに絡めとられていている。
 
 社会批判やマジョリティへの弾劾を書き連ねるアカウントですら、2010年代のインターネットの空気のもとでは若いうちからキャラ化してしまうというか、コミュニケーションの網目に適応し過ぎてしまって、そういう意味では掴みやすくなってしまっているようにみえる。掴みやすいキャラほど、暫し眺めて、飽きてしまう。
 
 要は、現代の若いアカウントの中二病・尖り具合・衝動性ってのは、へたにキャラが立っているものだから、わかったことにしてしまいやすすぎる、のだと思う。本当にそのアカウントの“なかのひと”を理解しているかどうかは抜きに
 
 「中二病の様式が変わってしまって、amamakoさん風の、それか“はてなダイアリー風”の、と言うべきか、そういう尖り方がみられなくなってしまった」と言えば古いはてなユーザーにはニュアンスが伝わるかもしれない。
 
 振り返ってみると、amamakoさんというアカウント、あるいは「現象」は、00年代風の思春期心性の一形態だったのであって、『シュタインズゲート』や『中二病でも恋がしたい!』を楽しんでしまった後の2010年代中盤以降には遭遇しにくいものだった、と言わざるを得ない。
 
 本当は、私の観測範囲の問題と、インターネットのスポットライトの当たり具合の問題でしかないと信じたい。言葉のナイフをめくらめっぽうに振り回しながら、眠れない午前二時に苛立っているアカウントがどこかに群生しているとしたら、私は嬉しい。というより、そういうアカウントの群生地帯を見つけたら安堵するだろう。だが、そのような「ガラスの破片の理想郷」を私は発見できていない。
 
 このほか、ブルーシートオフ会的な習俗も観察しなくなったなぁ……と思う。今、ああいうタイプの若者同士がオフ会で繋がることってどれぐらいあるんだろうか? コミュニケーション親和的な若者がオフライン/オンラインも区別なく交流しているのは当然として、かつてのamamakoさんのような、コミュニケーション親和的とは言い難い黒曜石が素のまま交流しているハブステーション、あるいは居場所を、私はなかなか想像できない。ほかのインターネット古参兵な皆さんは、そういうガラスの破片をどこで新規発掘しているのだろう?
 

*1:ん?過去系にしていいのかな?お戯れなシロクマさんよ?

シロクマ(熊代亨)の著書