シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

空がうまく飛べない夢から、魚が獲れない夢にトレンドが変わった

 
 20代~30代の前半にかけて、私は頻繁に空を飛ぶ夢を見た。
 
 空を飛ぶとは言っても、自由に空が飛べるわけではない。私が頻繁に見ていた空を飛ぶ夢は、垂直方向の移動(上下移動)は簡単にできても、前にはなかなか進めない、ヘリコプターのホバリングみたいな夢だった。
 
 ちょっと高い場所からグライダーのように飛び立ち、草原を越えて遠くに向かったり、街のビルの谷間を縫うように飛んでみたり――そういうことをやってみたいのに自分が前に進めなくなって、上下移動ばかりになって途方にくれる。そういう夢を割と頻繁に見たのだ。
 
 あまりにも頻繁に見るものだから、空を飛ぶ夢のなかで「今日こそは前に進みたい」と願うことがだんだん増えてきた。「今日こそは、エースコンバットみたく自由に大空を飛ぶんだ」と意識して、飛ぼう、飛ぼう、と夢のなかでイメージするのだけど、そのとおりに飛べることは、少なかった。
 
 こういう夢は、何かが上手くいっていない時によく見たように思う。空を飛ぶということは、私自身にとっては自由をイメージさせる。不自由を感じていたり、自由がいかせていないと感じる時に、私は空がうまく飛べない夢をみていたように思う。夢は何かを象徴していた。それか、夢は欲求不満やストレスの何かに修飾されていた。
 
 それが、40代になってからは空を飛ぶ夢をあまり見なくなった。見たとしても、前に進めない夢を見ることは減った。40代になってから見る空を飛ぶ夢は、わりと自由に飛べている。
 
 かわって、「きれいな川や水路を泳いでいる魚を捕まえようとして、結局捕まえられない夢」を観ることが増えてきた。
 
 私は昔から、水中を泳いだり、海を渡ったり、潮干狩りや磯遊びをする夢は割とみていたと思う。現在でもときどき見る。
 
 しかし、最近になって今までは殆ど見なかった夢のバリエーションが加わるようになった:それが、「きれいな川や水路を泳いでいる魚を捕まえようとして、結局捕まえられない夢」だ。
 
 それらの夢の共通点は、
 
 ・比較的狭い水路であること(川、用水路、海峡など)
 ・透明度が高く、美しい魚がたくさん泳いでいること
 ・網が無い、用事がある、禁止されているとかで、絶対に魚を獲れないこと
 ・水路の周辺は緑が豊かで、とてもきれいな景色であること
 
 だ。
 
 空を飛ぶ夢に比べると、水路、きれいな水、魚、緑豊かなバックグラウンドが自分のどんな願望や不満を反映しているのか、よくわからない。ただ、かなりの頻度でこうした夢を見るということは、私の生活や心性の何かが反映されているのだろう。
 
 夢判断は、客観的なものではなく、自分自身にとっての意味づけを振り返るものだという。だとしたら、私にとって水路とは、透明度とは、美しい魚とはなんだろうか。獲れないということが仄めかしているものはなんなのか。眠っていても、執着。
 

「飲んでもS-とか余裕」とは想像上の存在ではないのでしょうか

  
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 去年の夏に、スプラトゥーン2のバイトについて上のような記事を書いたら、以下のようなブックマークをいただいた。
 

「はんにんまえバイト」の世界は、超絶ブラックだった - シロクマの屑籠

大抵のゲームは飲みながらやってるので、飲んでる方が普通だから迷惑とか言われてもね。飲んでてもS-は余裕だし。ゲームとか好きにやればいいのよ

2017/08/21 15:31
b.hatena.ne.jp
 
 酒飲んでS-まで行くなんて凄い人だなー、上手だなーと当時は思っていた。当時の自分はBぐらいだったので、遠い世界のように感じられた。ところが、それから月日が流れて、自分もA+から昇格することになった。昇格して辿り着いたのは「S-」ではなく、「S」。馬鹿な。S-なんて無いじゃないか。ギリギリの昇格だったので、飛び級ではないのは明らかだった。
 
 心配になっていろいろ調べてみると、S-という階級は初代スプラトゥーンにも今回のスプラトゥーン2にも存在しないということが判明した。おかしいじゃないか! ブックマーカーの人は一体どうやってS-になったのか。まさかとは思うが、このS-とは、ブックマーカーの想像上の存在にすぎないのではないだろうか。酩酊に酩酊を重ねて、幻でもみてしまったか、記憶障害が生じてしまったのではないだろうか。だとしたらプリントアウト案件である。
 
 実際には、下調べもせずに書かれた嘘だったのだろう。これだからインターネットは。
 

はてな村的なものとアメブロ的なものが合わさった時、炎の虹が生まれる(2015)

 ★注:以下の文章は2015年頃に作られたとおぼしきものだ。その前提で読んでいただき、はてなブログ周辺の景色の変化と諸行無常に合掌していただきたい。
 
 
 最近、ぽつぽつ目に入るようになってきたように思うんですよ。
 
 はてなブログの一角で平和に暮らしていたブログが、何かのきっかけで注目を集め、ホットエントリに登録される。で、そのときに大量のはてなブックマーカーにあれこれの(大抵は否定的な)コメントが大量について、精神的に飽和状態になったり、すっかり嫌になってしまったり……といった事例が。
 
 はてなブログが開設されて数年経ちました。はてなブログはてなダイアリー以上に多種多彩なユーザーを含み、あまり目立たないはてなブログのなかにも様々なブロガーが存在しています。
 
 そうしたブログのなかには、はてな村的なもの、あるいははてなブックマーク上で連日のように繰り広げられている、“いわゆる”はてなブックマーク的なものとは無縁の日々を過ごしている“日記”や“考察”を綴ったものも少なくありません。他社のブログサービス、それこそアメブロ楽天ブログに行けば幾らでもありそうな、そういう長閑な光景も案外広がっています。
 
 しかしはてなブログとは、はてなブックマークを中核としたはてな村的なインターネットコロッセオに隣接した区画なのでした。ちょっとした繋がりによって、“リテラシーの高い”はてなブックマークユーザーの目に留まった時に、火の手があがってしまうことがあるのですよね。
 
 古いロールプレイングゲームのなかで、雨雲の杖と太陽の石が合わさった時に虹の橋がかかる、というイベントを観たことがありますが、現在はてなで見かける風景は、さながら、古参はてなブックマーカーと新参でアメブロっぽいはてなブログがあわさった時に炎の橋がかかる……といった趣があります。私としては、惹かれるような、いたたまれないような、なんともいえない気持ちで胸がいっぱいになります。
 
 PVやアフィリエイトの面で、はてなブログアメブロ楽天ブログより有利な場所かもしれませんが、ここは、はてな的インターネットコロッセオと隣り合わせの、殺伐とした土地、容赦の無い文化の土地なのでした。ほかのブログサービスからはてなブログに引っ越して来る人には、「はてなの門をくぐる者、一切の甘えを捨てよ」的な、注意を喚起しておいたほうが良いのかもしれません。それは冗談としても、はてなブックマークが網の目のように張り巡らされた、この独特なインターネット文化圏の面倒くさい部分には、気をつけておいてもらったほうがいいのだろうとは思うのです。
 
 こうしたインターネット文化圏の違いによるコンフリクトはもちろん今に始まったものではなく、はてなダイアリーが主力だった時代にもありましたし、2ちゃんねる等でもまま起こるものでした。とはいえ、2015年になってもその手のボタンの掛け違え、いや、引き千切りが起こってしまうのを目の当たりにすると、なんとも人間集団とは進歩しないものだなと思わずにはいられません。
 
 そういえば、先日完結したはてな村奇譚で、こんなフレーズが登場しました。
 

 はてなは今、大きく変わろうとしています
 上場を目指し、みんなが楽しめる安全で健全なサービスになろうとしています
 でもその時に失われるものもたくさんあります
 サービスを形作るのは結局それを利用する人たちです

http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2015/05/04/000000

 
 このフレーズを逆さ読みするなら、現在のはてな的インターネットコロッセオとは、みんなが楽しめるとは限らない、危険で不健全な場所なのかもしれません。そして、現今のはてなブックマーク上の“世論”をつくっている人達も、(株)はてな としては、ありがたいような、ありがたくないような、微妙な存在とうつっているのかもしれません。
 
 私もこのはてなダイアリーはてなブックマークを利用するようになって十年が経ち、そうしたはてな的インターネットコロッセオの是非を論じるには当事者過ぎるきらいがあります。だからその、外部の人との関わりのなかで旧来のインターネットコロッセオ的なものがどのようにまなざされ、評価されているのか、ちょっと耳を傾けたい今日この頃です。
 
 ★2018年から振り返ると、はてなブログの「サービスを形作るのは結局それを利用する人たち」も随分と移り変わりましたね。これから、はてなブログはてなブックマーク方面はどうなっちゃうんでしょうねえ。そういう「はてなブログの将来」を新年に語る人が、今年は私の観測範囲には現れませんでした。どこかでは盛り上がっていて欲しいと願います。
 
 

「息子よ、稼ぎには二つの種類があるということを知っておきなさい。ひとつはお前が求める稼ぎ、もうひとつはお前を求める稼ぎだ。」

 
 以下の文章は、インターネットの生存戦略としても、現代人の智慧としても、私には説得力のあるもののようにみえるので、写経して飾っておくことにした。
   

 欲望は満たすことができず、運命で定められた人生を超えることはできないということを確かなこととして知っておきなさい。お前は自分の前にあるものを求めている。だから、求めることは謙虚に、手に入れることはほどほどにしなさい。なぜなら求めることは往々にして失うことにつながるから。稼ぎを求めるものはそれを得ることはなく、求めることをほどほどにするものは奪われることはない。卑しいものからは距離を置くようにしなさい。たとえそれらのものがお前の欲望する目的へと導くとしても。なぜなら、お前がそのようなものを大切にした見返りとしてお前が得るものはないだろうから。他人の奴隷となってはならない。なぜならアラーがお前を自由にしたのだから。悪によって獲得された利益にはよいところなどなく、困難によって獲得された安楽にもよいところなどない。
 (中略)
 息子よ、稼ぎには二つの種類があるということを知っておきなさい。ひとつはお前が求める稼ぎ、もうひとつはお前を求める稼ぎだ。二つめのほうは、お前のほうから近づくことはできないが、向こうからお前のところにやってくる。貧しいときに身をかがめ、富めるときに荒々しいのはなんと困ったことか。お前が定住する場所を飾ることができるものだけを手に入れなさい。お前の手から失われたものについて嘆くなら、そもそもお前のところにやってこなかったものを求めて泣きなさい。
 (ナシア・ガミー『現代精神医学原論』P170 より)

 この書籍は、イラン人の精神科医によって書かれた大部の本だが、そのなかに、シーア派スーフィズムについての記述があった。執着や欲望をどう見るか(とりわけ精神科医がどう見るか)について書かれたなかに抜粋されたこれは、執着についての東洋的な捉え方の一例として登場する。
 
 上記抜粋の内容を破って生きるほど、執着は苦しくなり、ここに書いてあることを遵守するほど執着は軽くなるだろう。主観的な幸不幸の感覚をコントロールする智慧の、典型的な一例だと思う。仏教じゃなくてもちゃんとあるやん、と思った。
 

語尾にwをつけずにいられない人達 in 2017

 

2000年頃からずっと思い続けてきて、なおかつ時間が経てば経つほど確信せざるを得ないことがある:それは、いつもいつでも語尾にwをつける習慣がついているアカウントは、自分の発言に逃げ道を用意しておきたいヘタレである、ということだ。
 
 ただし、例外はあって、ニュー速vipの独自文化と、ネトゲのチャットのように「早指しが必要なのでメッセージを簡略化するインセンティブが明確な場合」。しかしそうでない場合は、語尾にwをつけることを愛好している人間を見たら、「この人はヘタレなのかなぁ」「どうしてこの人はwを語尾にわざわざつけるのかなぁ。その動機は何なのかなぁ」という点をよくよく点検する価値があると思うし、その発言の重みについて十分な検討が必要のようには思える。

 
 これを私が書いたのは2010年頃と思われる(記憶媒体の最下層から拾ってきた)。その後、wをtwitterなどの短文の語尾に頻繁につける人達は、やはりエクスキューズを常に残しておきたがる人のようにみえる。他方で、wやwwwwの用法はネットゲーム的・2ちゃんねる的なネット民俗を逸脱し、かなり幅の広い使われ方をするようになった。wやwwwwを語尾につけている人が精神的に必ず逃げたがりとは限らない。しかし、アカウントを15分も精読すれば、文章は、その人物の構えや佇まいを滲み出させてやまないのだから、この識別法がダメになったからといって、インターネットがそのぶんややこしくなったとは言えない。
 

小児性愛障害Pedophilic Disorderの診断的特徴に書かれていること

 

DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル

DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル

 
 
 私の近所のインターネットで「小児性愛」「ペドフィリア」といった言葉を何度か見かけたので、以下に、アメリカ精神医学会のDSM-5における小児性愛障害について、診断基準と診断的特徴を引用・列挙して写経しておきます。
 
 
【診断基準 302.2(F65.4)】

A.少なくとも6か月にわたり、思春期前の子どもまたは複数の子ども(通常13歳以下)との性行為に関する強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する。
B.これらの性的衝動を実行したことがある。またはその性的衝動や空想のために著しい苦痛、または対人関係上の困難を引き起こしている。
C.その人は少なくとも16歳で、基準Aに該当する子どもより少なくとも5歳は年長である。
(注:青年期後期の人が12~13歳の子どもと性的関係をもっている場合は含めないこと。)

 【診断的特徴】
 
 小児性愛障害の診断基準は、このパラフィリアを打ち明ける人と、明らかな客観的証拠にもかかわらず思春期前(一般に13歳またはそれ以下)の子どもへのあらゆる性的誘惑を否定する人との両者に適用することを意図している。このパラフィリアを告白する例としては、子どもへの強度の性的関心を素直に認め、子どもへの性的関心は身体的に成熟した人への性的関心よりも強いか同等であると述べる場合も含む。子どもへの性的誘惑や好みが心理社会的困難を生じていると訴えている人も、小児性愛障害をもつと診断してもよい。しかし、これらの衝動についての罪悪感、恥辱、または不安の意識がないことを告白し、(自己報告でも客観的評価でも、あるいはその両者でも)パラフィリア的衝動によって機能的な制限がないならば、さらに自己申告と法的に記録された履歴により衝動に従って行動したことがないと示されているならば、その人は小児性愛的な性的指向をもってはいるが小児性愛障害ではない。
 子どもへの魅惑を否定する人の例には、異なった機会に複数の子どもに対して性的な接近を行ったことが判明しているが、子どもに関する性的行動についての衝動や空想は否定する人、さらに、判明したエピソードや身体的接触はすべて故意でも性的でもないと主張する人が含まれる。また他の人は、過去の子どもに関する性的行動のエピソードを認めるが、子どもに関する衝動や空想を経験していることを否定するであろうから、主観的に苦痛を感じていることも否定するであろう。このような人は、自ら報告した苦痛がないにもかかわらず、6カ月にわたり行為を繰り返した(基準A)という証拠と、障害の結果として性的衝動に基づいて行動したか対人関係の困難を経験した(基準B)という証拠がある場合には、小児性愛障害と診断してもよい。
 上述したように、被害者が複数存在することは診断の十分条件となるが、必要条件ではない。つまり、強烈なまたは選択的な子どもへの性的関心を認めることによってのみ、その人が基準Aを充たすとしてよい。
 小児性愛の兆候や症状が6カ月以上持続しているという基準Aの一節は、子どもへの性的魅惑が単に一過性のものではないということを保証しようとするものである。しかし、6カ月の持続期間が正確に判断できない場合でも、子どもへの性的魅惑が持続していたという臨床的な証拠があれば、この診断を下してよい。
 
 【診断を指示する関連特徴】
 
 思春期前の子どもを描いたポルノグラフィーを過度に用いることは、小児性愛障害の有用な診断的指標である。これは、人は自分の性的関心に応じた種類のポルノグラフィーを選ぶ傾向があるということの一般的な事例の特別な例である。
 
 ※有病率、症状の発展と経過、そのほかいろいろについては、書籍のP692以降を読んでやってください
 ※こういう、診断的特徴に描いてある細々としたことが、診断基準の一覧だけ眺めていてもピンと来ないことを補ってくれて滋味深いので、DSMの診断的特徴の読み物はすごく良いんじゃないかなぁ、としばしば思います。
 

シロクマ(熊代亨)の著書