シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

因縁とテクストとパロール

 
 因縁・縁起の後世継続性と、その媒体についてのメモ。
 
 『サブカルチャー神話解体』で宮台真司さんが、いささかのぼやきのような修辞を伴いながら、「ある時期においてネタだったサブカルチャーが、一世代またぐとマジとして受け取られる問題」や「ある時期においてガチだったサブカルチャーが、一世代またぐとパロディーとして消費される問題」について語っているのを観ながら、思う。
 
 文章ってのは、後世に伝えられる強度が強い。風雨に耐え、ゆっくりとした改変を受けつつもある程度確実に受け継がれていく。
 
 けれど、そうでない微妙なニュアンスや綾は、なかなか後世には伝えられない。シーンに漂う空気とか、コミュニティ内で共有されている暗黙の了解やお約束、当事者達の浮かべた表情とか。語彙「オタク」周辺にしたってそうだ。1970年代末~90年代はじめのオタクに込められていたニュアンスは、90年代後半にははっきり変わってしまっていた。00年代後半に、それは次の意味合いを帯び始め、予想通り、2010年代にさしかかって出涸らしのお茶のようになっていった。
 
 だから、例えば2010年に20歳のアニメファンになった人は、1995~2000年頃のオタク界隈について、書籍を通して知ることはできるが、実際に当時の秋葉原やコミックマーケットを支配していた了解やお約束、浮かべた表情といったものを文献以外の方法で知ることは難しい。ほかに有効な方法としては、可能な方法があるとしたら、当時を知る先達に、インタビューしてみることだが、これもこれで、記憶のセピア色問題とか、一人が一度のインタビューで引き出せる情報量はどうしても限られる、等の制約はある。
 
 文章では拾いにくい、敢えて往時の暗黙の了解や空気を再現できる何かがあるとしたら、やっぱり歌とか演劇とか、そういう形しか無いのかな、と思う。もちろんそれらも取捨選択された、あるいは術者によって表現されたものではある、けれども文章では拾いにくい情報をパッケージする可能性は、そこにはある。支持を集めたヒット曲ってのは、そういう観点からすると侮れず、社会学者がそういう情報の缶詰としてのヒット曲を分析したがる所作には、単なる道楽以上の意味合いがあるような気がする。
 
 そこを思うと、テキスト偏重だったインターネットの時代に比べ、動画、ニコニコ生放送のアーカイブが流通する00年以降のサブカルチャー界隈は、今までとは違った形でジャンル内のニュアンスやお約束が引き継がれていく可能性を含んでいる、のかもしれない。歌ってみた、踊ってみた近辺は、今はアレでソレなことになっているけれど、ああいう庶民の踊りがアーカイブ化されていくと、一体どういうものがどういった形で後世に伝えられていくんだろう?そういう事を想像すると、ちょっと面白い。
 
 これって、(サブ)カルチャーの情報伝達、因縁や縁起の繋がり方が、今までとちょっと違った形になるってことなんだから。少なくとも、テレビや活版印刷と同じぐらい、動画やustream的なものは、カルチュアルな領域の因縁や縁起に何かを起こす筈だ。
 
 ついでにオタクとは何かの変遷について書き足したくなったけど、飽きてきたのでこのへんで。はてなブログは一発アップロード前提だから、緊張しながら、推敲をもうしないぐらいの覚悟で殴り書きするから、これはちょっと疲れる。いいような、悪いような。

シロクマ(熊代亨)の著書