ゴミ出し。
ひとたび野に放たれた言葉は、放たれる前と、放たれた後の人間関係・社会座標に多かれ少なかれ影響を与える。こうした影響性はインターネット上のエクリチュールにも当てはまることで、そのエクリチュールが書き込まれたメディアの性質、被閲覧性の高低、保存性の高低、なにより発言内容によって、人間関係や社会座標に影響を与える。そしてその影響性は、書き手自身の意図や想像をしばしば越えて一人歩きする。
もし、被閲覧性および発言内容が一定の場合は*1、
1.静的htmlかつ独自ドメインのもとに書かれた堅固で永続性の高いネットメディア
2.ブログ
3.公のtwitter
4.閲覧者の制限されたSNS
の順にエクリチュールの影響は大きくなると想定されるが、あくまでこれは「被閲覧性が同等なら」という仮定に基づいたもので、ウェブサイトが下火な現在では、2.や3.のほうが1.より優越している場合のほうが多い。とはいえ、twitterなどは一定程度で過去に流れ去っていく性質が(現在も、あるていど)強いため、被閲覧性が十分低く流速が速いアカウントの場合は、書き言葉よりも話し言葉に近い性質を帯びる事も期待できる。
ほんらい、こうしたエクリチュールの一人歩き問題を気にしなければならないのは、書き言葉を独占していた人々、書かれた言葉が不特定多数に読まれ得る特殊な立場の人々だけだった、少なくとも歴史的には。ところが現代社会は、このエクリチュールの問題が殆ど全ての人に――つまりネットユーザー全般に――適用される例外的な(というより新しい)社会だ*2。
繰り返すが、エクリチュールが人間世界の座標系に与える影響は、メディアの性質や被閲覧性や保存性に多くを依っている。だから、少ない更新頻度で閲覧者の制限されたネットユースに徹している人の書き言葉は、派手な影響性を持つことも甚だしい一人歩きをすることもないかもしれない。それでもなお、ひとたび書かれ、複数名に曝され、複数回読まれ得る状態に至ったエクリチュールは、ただそれだけで書き手にとってアンコントーラブルな余地を含む。パブリックなWWWに放たれて何百人もの目に触れるようになった書き言葉は、どこに向かうのか知れたものではない。ともあれネットに何かを書き残す者である限り、書き言葉の制御困難性の問題を他人事として済ませられる人は殆どいない。
この手の問題は、根源的には、人間が言語を発明し話し言葉を交換するようになって以来はじまったものだけれど、書き言葉という、打ち消されるまで持続的に浮遊し続けるメディアの登場によって、威力と制御困難性の双方において新しいステージに到達した。で、記憶媒体の発達と情報技術の進歩によって、今世紀においては、そのメディアが万人の所持・行使するものとなり――(広場の石碑などに比べれば)小なりといえども書き言葉の威力と制御困難性がネットユーザーすべてを巻き込んだという点では、これもこれで人類開闢以来はじめてのステージに到達した。
書き言葉の顕現という意味では、ネットの普及した現代は、新ステージだ。あなどってはいけない、万人が万人に対し書き言葉を提示できる(=しなければならない)社会がやってきたのだ!
書かれた言葉は、消されるまでそこに留まり、書いた瞬間の書き手の意図や想像を超え、書かれた言葉自身が(文字通りの)情報発信機能を果たし続ける。その性質が人間関係や社会座標に与える影響は、私的/公的に、簡単ではないのだけれども、この性質をこの性質として意識しながら書き言葉を連ねている人は、まだ少数派だと思う。案外、これからも当分少数派かもしれない。そのギャップがマクロな人間社会にもたらす影響とミクロな個人の適応に与える影響は、混沌としたものだと私は思う。こうした動向を踏まえて話し言葉に近いネットメディアも現れているけれども、そのようなメディアが現れたからといって、普及した書き言葉的ネットメディアが弱体化するとはあまり思えない。かりに弱体化したとしても、たいていの個人は書き手たり続けるはず。
まあ、世の中には予測可能なことなんて無いので、こうした変化を気楽に構えるのも良いかもしれない。どのみち、なるようにしかならないものでもあるし。しかし、その、なるようにしかならない行く末の成立材料として、この(書き言葉の)未曾有の台頭と(書き言葉の)性質への防備の乏しさが顕れているのを観ると、難しいものですね、と思わずにはいられない。こうしたギャップを愛し、ギャップを利用しようとする向きも当然あるだろうし。
このあたりの問題は、どこに向かっているのだろう?