以下の文章は、インターネットの生存戦略としても、現代人の智慧としても、私には説得力のあるもののようにみえるので、写経して飾っておくことにした。
欲望は満たすことができず、運命で定められた人生を超えることはできないということを確かなこととして知っておきなさい。お前は自分の前にあるものを求めている。だから、求めることは謙虚に、手に入れることはほどほどにしなさい。なぜなら求めることは往々にして失うことにつながるから。稼ぎを求めるものはそれを得ることはなく、求めることをほどほどにするものは奪われることはない。卑しいものからは距離を置くようにしなさい。たとえそれらのものがお前の欲望する目的へと導くとしても。なぜなら、お前がそのようなものを大切にした見返りとしてお前が得るものはないだろうから。他人の奴隷となってはならない。なぜならアラーがお前を自由にしたのだから。悪によって獲得された利益にはよいところなどなく、困難によって獲得された安楽にもよいところなどない。
(中略)
息子よ、稼ぎには二つの種類があるということを知っておきなさい。ひとつはお前が求める稼ぎ、もうひとつはお前を求める稼ぎだ。二つめのほうは、お前のほうから近づくことはできないが、向こうからお前のところにやってくる。貧しいときに身をかがめ、富めるときに荒々しいのはなんと困ったことか。お前が定住する場所を飾ることができるものだけを手に入れなさい。お前の手から失われたものについて嘆くなら、そもそもお前のところにやってこなかったものを求めて泣きなさい。
(ナシア・ガミー『現代精神医学原論』P170 より)
この書籍は、イラン人の精神科医によって書かれた大部の本だが、そのなかに、シーア派のスーフィズムについての記述があった。執着や欲望をどう見るか(とりわけ精神科医がどう見るか)について書かれたなかに抜粋されたこれは、執着についての東洋的な捉え方の一例として登場する。
上記抜粋の内容を破って生きるほど、執着は苦しくなり、ここに書いてあることを遵守するほど執着は軽くなるだろう。主観的な幸不幸の感覚をコントロールする智慧の、典型的な一例だと思う。仏教じゃなくてもちゃんとあるやん、と思った。