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シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

執着について思うこと2

執着

 
 先日の執着関連の文章に反応を頂いたので、お返事……と言えるかどうかわかりませんが、もんやりと頭に沸いたことを虫ピンで留めてみたいと思います。
 
 
 まず、こちら。
 
 「場の文脈」より「アカウントの自由」が先立つインターネットでは「言及しましたね!」の火力が強すぎる - ←ズイショ→
 
 いやいや、心配し過ぎなんじゃないでしょうか。
 
 「言及しましたね!」メソッドは、そんなに強いものでもなく、誰にでも何にでも適用できるものでもないですよ。「言及しましたね!」「それがあなたの執着ですね」は、慣れてもいないのに乱用すれば、たちまち的を射ぬかなくなってしまうものです。弓矢が優れた道具だからといって、よく引き絞りもしないで乱射すれば、何も当たらず、遠くにも飛ばないのと同じです。よく狙って、よく引き絞って、ここぞという時にしか使わないこと。そして絶えず訓練を怠らないこと。そういった条件下でのみ適用できるものであり、適用したからといってそれが本当に的を射ているかは、実のところ、判定が難しいと思います。
 
 こちらの文章がややわかりにくかったかもしれませんが、言及スカラー量が小さい場合に「言及しましたね!」とかやっていたら、とんだ阿呆ですよ。「言及しているか否か」で執着を測定すると、まるで宗教裁判のような雰囲気になりそうですが、それをやってしまうと人の執着は読めなくなります。「どんな具合に言及しているか」「どれほど言及しているのか」が大切なのです*1
 
 例えば、ズイショさんの記事にちりばめられた大量の語彙を見て、全部「言及しましたね!」と言ってまわるとか、ナンセンスもいいところです。特にあなたのような長文を惜しまず吐き出し続けるブロガーの場合、文中のどこに執着の力点があるのか確かめるには、かなりの精読が必要です。そして過去ログを読んで、あなたの関心、あなたの欲求、あなたの不安を読み取らなければ、精度の保たれた執着の測定はできないでしょう。文字量が多く、話題も豊かなブログの場合は、こうした精読は手間隙がかかります。鬱蒼としたジャングルのなかの獣道は、スカスカの林のそれに比べて読み取りにくいものです*2
 
 そういった骨折りな測定を行った場合ですら、あなたがプロっぽくて世俗の利得目的で特定領域のプロダクツを吐きまくっている場合などは、読み違えが起こる可能性が高くなってしまいます。そしてお気づきのとおり「ダミーを混ぜてあしらっておく」ことだってできるわけです。
 
 ですから、特にあなたのようなブロガーの執着を読もうとしたら、相当な常連客にならないと、無理だと思うんですよ。例えば、一見さんがあなたのタロットブログ分類記事だけを読んで執着を読もうとしたら、必ず、読み誤るでしょう。いやいや、そもそも一見さんが、相手の執着をいきなり読もうとは思いますまい。ブロガーを、ではなく、ブログ記事だけ読んで(あるいはtwitterアカウントをではなく単独のツイートだけを読んで)「こいつの執着は●●だ!」みたいな批評を確信するのは、あまり利口とは思えません。
 
 私は、

「場の文脈」より「アカウントの自由」が先立つインターネットでは「言及しましたね!」の火力が強すぎる

 とはほとんど思っていません。私が思っているのは
 

「ブロガー個人の文脈」より「記事単位で読まれる」インターネットでは「言及しましたね!」の精度が悪すぎる

 と思っています。
 
 ご指摘の問題は、ブロガーが、ではなく、ブログ記事がコンテンツとして個別消費されている状況下では、あまり心配しなくていいのではないでしょうか。そして、私が「言及しましたね!」メソッドを書いていた頃のはてなブロゴスフィアは、ブロガー個人の文脈を相互把握しあう度合いが今よりも高かったからこそ、「言及しましたね!」メソッドが有効に働く余地があった(=第三者にも有意味な物言いになりやすかった)のではないかと思います。
 
 ここまで書いて思ったんですが、私が「言及しましたね!」をやらなくなった一背景には、ブロガーが、ではなくブログ記事が読まれるようになっていったこともあるのかなぁと思いました。
 
 ただ、ズイショさんの懸念に近いようなことは私も思うところはあって、
 
 1.それでも不特定多数に読まれている限り、しっかりブロガー個人の文脈を掘り当ててくる人間は出てくる
 
 2.むしろ内心の執着の読み取りとは無関係に、なにかしら言及しただけで宗教裁判的なノリで「へっへっへ、○○に言及しましたね、悪い子だねぇ、みなさーん、ここに悪い子がいますよー!」的なことを言う人間は出てくるかもしれない
 
 などは気になります。ただ、インターネットがアングラからパブリックなものになって、個人アカウントというものが、メディアとしての性質を帯び続けていく現況下では、1.2.ともに避け難い変化のような気はします。息苦しいところもある反面、インターネットがメディアとして成熟し、ブロガーが「発信者」になってしまうと避けられない部分でもあります。個人的には、何とかなって欲しいんですが、メディアはメディアですからねぇ*3
 
 ちなみに2.については、コミュニケーションの一般論としても結構面白くて奥が深いのですが、そろそろ時間なのでおいとまします。
 

*1:言い換えるなら、定性的なものではなく定量的なもの、といったところでしょうか。稀に、「一発言及即ノックアウト」も無いわけでは無いですが、あくまで例外です

*2:逆に、鬱蒼としたジャングルのなかでさえ、浮び上がってきて多くの人が目撃するような執着の獣道もあって、そういうのは非常に気になりますね。

*3:メディア!まなざす者とまなざされる者が常に非対称な、この歪んだ空間!表出された文字列だけが浮遊し、そうでないものは現れず、放っておくといつまでも残り続ける偏ったコミュニケーション!ところが、ブロガーの多くは、こうした不自然な空間とコミュニケーションを自然なものとして受け取っています。それは、結構厄介な乖離のような気がするんですよ。

シロクマ(熊代亨)の著書