シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

執着について思うこと3

 
 続いて、こちらにも。
 
 
 
「執着」には「怒り」が伴うものではないのかな? - いつか朝日が昇るまで

 
 執着の仏教的用法にさし戻って考えると、「執着には怒りが伴うものではないか」は当たっているような気がします。私風に言い直すなら「執着には怒りや悲しみや失望が必然的に伴うのではないか」になるでしょうか。
 
 ただ、これは普段はあんまり意識しなくて良い法則だと思うんです。少なくとも、全ての人において、怒りや悲しみや失望が「必ず伴って体感される」わけではない。
 
 執着、すなわち求めるところのものが大きければ、その大きな要求水準を下回る現実に出会う確率が高くなり、そのぶん、怒りや悲しみや失望が伴いやすいでしょう。反面、求めるところよりも満足な現実、求めるところよりも幸福な現実に出会った時には、そのような事態に遭遇し怒りや失望を体感する確率は下がります。
 
 ですから「足ることを知る」は執着と向き合うには最適な方法のひとつですし、状況や対象を見極め、その都度、怒りや悲しみや失望に直面しないようなサイズの欲求を持ちやすい処世術を形成するのも方法のひとつです。特定方面にだけ敢えて怒りや悲しみに直面しやすいような執着を抱き、それ以外の方面の執着にとって有利な場面をつくるというやり方もあります。自分自身のなかで湧きあがってくる執着をすべてコントロールできる人間は存在しませんし、かならず満足できるような人間も存在しません。ですが部分的にダウンサイジングしたりコントロールしたりする余地はあるはずです。また、そうしたダウンサイジングやコントロールに寄与するような社会化過程*1もあるはずです。
 
 こうした事には例外もあります。
 
 稀に、「自分の思ったとおりピタリとした現実でなければ失望する」タイプの人がいて、この場合は、必ず怒りや失望が伴うかもしれません。それと「自分が予測したより大きな満足や可能性が提示されると、たじろいでしまう」タイプの人や、「自分が執着したとおりの満額回答をもらうと不安になる」タイプの人もいます。これらの場合も、執着の成就にはネガティブな感覚が必発かもしれません。
 
 こうした執着と怒り、執着と不安については、コフートという精神分析の人がつくった自己心理学が結構なヒントになります。ちょっとだけ、リンクを貼っておきます。
 
かんたん自己心理学もくじ――汎用適応技術研究
用語集・自己対象転移――汎用適応技術研究
 
 このあたりは、かねがねウェブサイト上にもっとキッチリ整備したいと思っているんですが、最近は忙しくて手が回りません。執着や欲求のたぐいとそれに対する個人の心理的布置の問題には、精神分析の面々がそれぞれに凝ったことをやっていますが、正常発達*2領域の対人関係の欲求や執着を扱うにあたっては、コフートが一番いけているんじゃないかな、と思います*3
 
 そして、上記リンク先にもあるように、あるいはこちらの記事に書いたように、執着と現実を折り合いづける処世術や方法論には、習熟度や熟練度による違いがあります。そうした習熟度や熟練度は、一般に、幼少期の体験が大きいと看做されていますが、私の周囲をみる限り、必ずしもそれだけではなく一生をかけて熟練度が上がっていく余地があるようにみえます。それこそ、
 

50歳までに「生き生きした老い」を準備する

50歳までに「生き生きした老い」を準備する

 
 ジョージ・ヴァイラントの書籍にあるように、幼少期の不遇が必ず一生の不遇に直結しているわけでも、一生の停滞に直結しているわけでもありません。成長といって語弊があるなら、変化、とでもいうべきでしょうか。
 
 疲れてきたのでもうやめますが、最後にひとつだけ。
 
 私の知っているところの仏教の書籍によれば、キリスト教的な意味の愛も、執着のひとつってことになってますよね。そういう観点では、愛とは、怒りや悲しみに近しいものかもしれません。仏教的には、愛より慈悲のほうが重要なわけで。
 
 輪廻をやめるとか、解脱して阿羅漢になるとか、そういう無茶は除外して考えるなら、私達が何かを愛したり欲しがったりする以上、怒りや悲しみから自由であれっていうのは、ムシの良い話なんだと思います。繰り返しになりますが、この仏教的原義の遡って考えるなら、としぞうさんの御指摘はまさにそのとおりです。
 
 でも、世の中には程度問題ってのがあるわけで。なるべく満足が多くて不満足が少なく、なるべく怒りが少なく喜びが多い処世術とか、身の構え方のほうが交感神経を刺激せずに生きていられるとは思うのです。それは、コフートのような人が語っているようなものでもいいし、仏教に限らず、各宗教が提供しているエッセンスでもいいのかもしれません。執着から怒りを「根絶」することは出来ないかもしれませんが、程度や頻度の面で「減らす」余地はあると私は思っています。お健やかに。
 
 ※この文章は本来11月1日に投稿されたものでしたが、操作ミスで吹き飛ばしてしまったので、11月4日に再投稿しました。はてなブックマーク、各種リンク等におかしな点があるかもしれません。ご容赦ください。
 ※こういうミスをやってしまう事って、あるんですね。
 

*1:大雑把に翻訳するなら「成長過程」となるでしょうか

*2:最近の表現で言えば定型発達

*3:ちなみに、マズローも捨てたものじゃなくて、特に「言及しましたね!」にまつわるような話もしていたりします。さすが欲求の魔術師ですね。彼は精神分析的な論者としては無名ですが、少なくとも彼自身はアメリカ精神分析の潮流をかなり理解しているようにみえました。

シロクマ(熊代亨)の著書