「高嶺の花」のようなワインに出会って絶句する体験が、ある部分では幸福をもたらし、ある部分では厳しい執着を生む以上に、「高嶺の花」のような人物に出会って絶句する体験は、ある部分では幸福をもたらすと同時に、ある部分では厳しい執着を生んでしまう。
それでもワインなら、金さえ出せばいつか手に入れられないこともないし、ため込んでおくこともできる。ワインはあくまで購買の対象だからだ。ヴィンテージの問題があるので、ワインとの出会いは常に一期一会ではあるけれども、「あのすばらしい体験をもう一度」という可能性に投機してみる余地はある。ところが人間というのは主体性のあるものだから、金を払って可能性の富籤を手に入れられるものでもないし、よしんば縁を得たとしても、ワインセラーのようなところに所蔵しておくこともできない。
「ああ、素晴らしい人物だな」と思える人との間柄は、当然果たすべき礼節を守るとしても最終的には運任せ・風任せであり、コミュニケーション能力や執念だけで繋ぎとめておけるようなものではない。そこに執着を燃やすのは明らかに利口ではないはずなのだ。が、「高値の花」のような人物はしばしばワイン以上に人を酔わせてしまうものなので、つい、引っ張られてしまう。