シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

私はtm2501さんにまだ暫く言及できません

 
 拝啓、id:nekoraさんへ。
 
 最近、このようなかたちでtm2501さんへの言及を私に促しておられるようですが、nekoraさんにおかれては、こちらも御存知ですよね?
 
 青二才氏の唯一無二のパトロン、シロクマ先生がTM2501をブロックするまでの経緯とブロック後の反応 - Togetterまとめ
 
 今月中にtm2501さんに言及したら「三年無言及と言ったはずなのに言及しましたね!」とnekoraさんは指摘なさると予想しております。あ、いや、今までの私の言動をnekoraさんが「これは青二才への言及だ!」と解釈なさっていた事も過去にはあった気がするので、そのあたりnekoraさんの判断加減はよく存じませんが、とにかく上記togetterにあるような宣言もあるので、2015年10月22日までは長々しい言及のたぐいは無いものとご想定ください。
 
 敬具。
 

もてない男女のマッチングシステムは?→無理無理、考えるのやめやめ

 
 「結婚できない男女やモテない男女の話があちこちに転がっている。モテなきゃ夫婦にならないのは、まあ、わかるような気はする。でも、昔はそうじゃなかった。お見合いシステムが健在だった頃の「出会い」とは、そういうものじゃなかった。」
 
 「現在の「出会い」には、場そのものが一定のハードルをクリアしていなければ参加できないような雰囲気がある。同性同士のコミュニティならともかく、一定割合で異性を含んだコミュニティに参加するための資格が、「モテ」なのではないか?この、結婚がプライベートかつ個人主義的な結びつきによって規定されがちな社会では、異性を含んだコミュニティに参加できなければ配偶なできようはずがないではないか?」
 
 「もちろんこの疑問には突っ込みどころが色々あって、たとえば、企業への参加には「モテ」は要らないんじゃないかとか、異性をとっかえひっかえできるほど「モテ」なくてもコミュニティには参加できるとか、色々な意見はあるだろう。」
 
 「でも、企業への参加から私的コミュニティへの参加の間には一定の距離があるし、異性にモテモテでなくても、異性に嫌悪されないぐらいのハードルはクリアしていなければならない。ここで必要とされている「モテ」度は、複数の異性に好かれるモテモテレベルではなく、異性に嫌悪されない程度のものだ。まあ、男女によって異性を嫌悪する/しないの判断基準のハードルの質・量は違っているだろうけれど。」
 
 「男女交際の自由市場にたゆたう男女、言い換えれば“花屋の店先に並ぶことを許された花々”とは、一定の「モテ」水準をクリアしたものではないか。“茎の曲がった花に喩えられるような男女”には、そもそも土俵にのぼる権利すら与えられていないのではないか。」
 
 「これまた突っ込みどころの多い疑問ではある。市町村主催のイベントに参加すれば良い等、いろいろな反論が考えられるしそれらはたぶん正しい。でも、そんなにあっさりと参加できるものだろうか?「モテ」のハードルをクリアする/しないの問題は、思春期の後半ぐらいには各人の心に沁みついているもので、世間が許しても内面が許さないことが往々にしてある。」
 
 「ここでいう“内面が許さない”とは、そういったイベント参加への億劫さといった形をとったり、参加したとしても、ある種の申し訳ないような感情や場違いな気持ちといったかたちで現われる。あるいは「モテ」の基準をクリアしているとおぼしき男女を前にした劣等感といった形をとるかもしれない。もちろんそれらは世間からの評価と連続的なものでもあるだろう。ともあれ、「モテ」の基準をクリアしているか否かは、外面やTPOだけの問題ではなく心理の奥深くを含んでいる点に留意しなければならない……。」
 
 
 ここまで書いて、「だったらコミュニケーションの苦手な男女だけが集まって、気後れせずにコミュニケートできるようなシステムがあればいいじゃないか!」と……思いかけたけれども、まさにこれが出来ないから無理なわけで、これ以上考えるのをやめよう、と思った。
 
 今日の「モテない」男女とは、コミュニケーション不全な男女と限りなく等しい。コミュニケーション不全な理由は色々あろうが、対人関係を構築すること、――とりわけ親密な対人関係を築き上げること――に難があればこその「モテない」が殆どだ。同性と親密な対人関係を築ける男女なら、舞台さえ与えられればある程度はマッチングに乗れる。でも、今問題となっている「モテない」男女の多くは、たぶんそうではない。
 
 親密さを築けない者同士がいくら集まったところでマッチングが成立するわけがない。科学で喩えるなら、希ガスのヘリウムとネオンをいくら混ぜても化学反応が起こらないのと同じ。手に手を取り合わない者、取り合えない者の間には結びつきは起こりようがない。
 
 男女の結びつきが(お見合い的なものであれ、いわゆる恋愛結婚的なものであれ)個人の自由選択と自由競争に委ねられた以上、選択できず、選択されず、競争できず、競争しない男女が出てくるのは避けられない。いや、お見合い結婚全盛期でさえ、どうしても売れ残る人は存在したし現代と異なるかたちで「モテ」的な価値基準は存在していた。その価値基準を値踏みする人間が男女当人なのか、それともお見合いオバちゃんや仲人かも違っていたけれども。
 
 じゃあ、男女の結びつきを再びお見合いオバチャンに――今ならコンピュータオバチャンあたりに?――委ねるべきだろうか。そうではないでしょう。元々結婚したくない男女だっているし、ひどくコミュニケーション不全な男女がめおとになって、それで幸せになれるとは思えない。人間は自ら選んだ選択の果てに不幸を掴んでも胸を張れない生き物なわけで、他人やコンピュータにあてがわれたマッチングの果てに不幸を掴めば絶望してしまう。「自由」を胸いっぱいに吸い込んで育った人々については、特にそうだ。
 
 そこまで考えるなら、誰彼かまわず結婚しろ・結婚すべきだ・結婚を強制執行する!なんて不可能ごとで社会の総不幸量はいやがうえにも高まるだろう。それぐらいなら、結婚し子育てする意志と能力を持った人がたくさん生み育て、そうでない人はそうでない人生を歩いていただいたほうが、たぶん不幸度は低くおさまるはずだ。それが良いことかどうかはわからないが、「モテ」度に応じて男女を強制マッチングする巨大なシステムが動いている社会よりは、個人主義との相性は良いはず。
 
 まあなんでもいいや、このへんは誰かがもっと利口なことを考えてくれるんだろう。たぶん。
 

艦これのゲームとしての面白さ&気持ち良さ

 
 (コンピュータ)ゲームって、ゲームとしての面白さと、物語としての面白さと、リアリティとしての精緻さは重なり合うところもあるが、重なり合わない部分もある。
 
 そういう目で艦これを眺めると、さしあたってゲームとしての面白さ・あるいは爽快な手触りみたいなものを重視した現路線がありがたいと感じる。一部のマゾい任務は(やりこみユーザー向けというのは重々承知しているとしても)マゾいけれども、あれはマゾい人がマゾくやりこめばいいのであって。
 
 問題点の無いゲームというわけではない。けれども「ハレとしてのイベント」と「ケとしてのデイリー」を色分けしたキャンペーンゲーとしての面白さは今のまま大切にして欲しい*1。いただけなかったアニメ版も含めて、物語としての面白さをどうこう言う人もいるし、リアリティに対してあれこれ言う人や、史実文脈との関係であれこれ言う人も見かけるけれども、さしあたって艦これはゲームとしての面白さに主軸があり、キャラクターとその二次創作性が外骨格としてしっかり機能しているから、そこのところがブレなければとりあえずありがたがっておいてもいいのかな、と私なんかは思う。
  
 ところで、「私の艦これ」、今の今になっても夢中になって続けているところがあって、嬉しいような、めんどっちいような、複雑な心境にならざるを得ない。『提督の決断』をやっていた経験上、連合艦隊モノはへたに手を出したら“たいへんなことになってしまう”と予め気づいていて、どこかで避けていたところがあったけれども、いざやってみれば予想通り、なんやかんや言いながら艦娘を育てる日々が続くことになってしまった。ゲームを面白がるのはゲーオタ的には適切なことだけれど、この歳の一個人としては、そのゲームに一身を捧げること、もはや限られた私的な時間を投入することに、一抹の躊躇いは感じる。
 
 まして、己の精神的支柱であったシューティングゲームの技倆が徐々に低下している今、自分自身の動体視力性に賭けるところのないゲームにリソースを(多少なりとも)投入していることに、ちょっとした罪悪感のようなものは感じる。これならまだしも、パズドラでゼウス討伐でもやっていたほうが良かったのではないか?
 
 しかし過ぎた時間にあれこれ言っても仕方ないし、今、動体視力性の高いゲームや操作精密性を問うゲームをあまりやらず、我が身がブラウザゲームに流れたのはそれなり道理にかなったものなのだろうと思うところもある。まさに↓これの話みたいなもので。
 

融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論

 
 いけないいけない。暁と響と電と雷は素晴らしいし、我が家の妙高は鬼神のごとく、我が家の瑞鶴羽黒は不良品のごとしなので、ここで文句を言うのは罰当たりというもの。しっかり鎮守府の日常を営み、地獄の夏に備えよう。
 

*1:あれは、とてもよくできたメリハリで、艦これを部活動めいた遊びに仕立てる重要なリズムになっていると思う

原稿圧とブログと腱鞘炎

 
 おととしあたりから、はっきりと自分のブログが原稿圧におされていると感じるようになった。これに気づいたのは、ちょうど二年前のこの頃だ。
 
 ブログが痩せてきた - シロクマの屑籠
 
 書籍の作成やその他のタスクにエネルギーを振り分けるようになった結果、ブログのために考え、ブログのために文章をまとめる時間がかなり減ってしまった。もちろん書籍の作成にはインプットが必要で、その副産物は絶えず発生し続ける。そうした副産物をリサイクルし、後になって使いやすい状態で保存するためには“ブログを書く”というプロセス、あるいはブログ記事によって“かすらせておく”プロセスがきわめて有効だ。インストールとアウトプットの脳内コンビナートの化学反応を無駄なく進める最良の手は、
 
 ・娑婆世界や臨床や書籍やネットからインプット
 ↓
 ・本を書くために必要なエッセンスに注力する→それはそれで完結させる
 ↓
 ・副生成物をブログにアウトプットする→後日、別の何かをまとめるとっかかりとする
 ↓
 ・得られた反応を参照する
 ↓
 ・またインプットに逆戻り(以下繰り返し)
 
 だと思うのだけど、忙しくなってくると「副生成物をブログにアウトプットする」のところが弱くなりがちだ。きっとブログにしたらちょっとした記事のまとまりになりそうな副生成物が、どんどん逃げていく。これはとても勿体ないことだけど、時間的/肉体的制約を超えてブログを書き続けることなんてできないから、どうしても取り逃しが増えてしまう。
 
 それと腱鞘炎の問題もあり、一日に延べで10000字以上を打つことが怖くなってしまった。延べで10000字ということは、手許に残る文章量はせいぜい3000~4000字程度。これをオーバーして文章を打ち続けると、手首の調子がおかしくなる。以前、打って打って打ちまくっていた時期に手首を壊しかけて整形外科の世話になったこともあるので、痛みを感じたら早々に切り上げるようになった。そうしているうちにも、脳内に何かがまとまりかけ、ブログに書きたい欲求だけは湧いてくるのだからほとんどビョーキだと思うけれども、ブログのために手をいじめて良い余裕は、今の自分には無い。
 
 よく、「毎日ブログを書くために必要なtips」みたいな定番の話題を見かけるけれども、私の場合、時間と気力と体力とダイヤモンドの手首が欲しい。ブログのネタなんて星の数ほどあるし、本当にネタに困ったらそこらへんのブロガーに言及すれば済む話なわけで、時間さえあれば、心身の余裕さえあれば、ダイヤモンドの手首さえあれば、私はきっと2006年のようにブログを書き綴れるはずだ。ああそれと、眼精疲労を起こさない鬼の目も欲しいかも。このまま十年続けられるのか、ちょっと自信が無くなってきた。
 

「お金のためのブロガー」を一律に軽蔑などできやしない

 私は自意識の露出や観測、自分語り、個人と切っても切れない文章を愛好するブロガーなので、そうしたブログを愛するし、またブロガーをいいなと思う。
 
 だからといって、「お金のためにブログ(や他のネットメディア)」を更新している人を一律に軽蔑することはない。軽蔑に値するような儲け方をしている人達は軽蔑に値するが、まっとうにやって奮闘しているところは、軽蔑するなんてとんでもないと思う。
 
 彼らは、私とはネットやブログに求めるものが異なる人種だから、そうした人達を積極的に好きになろうとか、読み込んでやろうとは思わないし、ますますインターネットが現金で舗装されるほどに、私の愛好するようなブロガーの領域は狭くなってしまうのかもしれない。だとしても、個々の優秀なプレイヤーを軽蔑してかかるのは、あまり良い習慣とは考えない。少なくとも、自分には出来ない(そしてやりたくない)ことをやってのけている人達というのは、たいしたものではないか。
 
 インターネットにおける現金・実利主義を嫌いたがる私の気持ちと、そこに携わり実際に(おおむねクリーンに)成功している人を評価する目線とを、ゴチャ混ぜにはしないようにしたい。「したい」とわざわざ表明したのは、時々、そのあたりを私が混同しているようなきらいがあるからだ。せめてこれからは、気を付けていきたい。
 

シロクマ(熊代亨)の著書