シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

「昭和党」はきっと当選しない

 
 忙しさからの逃避として書いているので、いろいろご容赦&お察しください。
 
社会の未来について語られても、現代が不思議で参考にならない - ←ズイショ→

 
 昨日のブログ記事に、ズイショさんからお手紙を頂きました。ありがとうございます。
 
 まず、夜中の一時半にブログを書くなんて不健康ですね。メンタルヘルスを損ねている人、とりわけ双極性障害と診断されている人が真夜中にブログやtwitterを書くのは大変まずいですが、そう診断されていない人でも不健康です。どうかご自愛ください。
 
 いやしかし、自覚的で潔い主張ってのはいいものですね。
 

 究極にみんなに優しい世界というのは、ヒトという種族ベースで見れば、そりゃあゆるやかな自殺です。「ちゃんと生存競争しなさいよ!」ってオカマに怒られるやつですよ。でも俺は別に自殺なら自殺でいいやと思うし。チューブだらけで延命したって仕方ないしさ、それなら人間らしく滅びるでもいいじゃない。そういう意味では、インフラを広域に維持しようとしてくたばるのだって別に構いやしないよ、と思います。まぁ全部「自覚的にそうしたなら」という条件付きですけどね。なんか、わけわからんうちにミスってた感がありますねこいつぁ、みたいな滅び方はやめようよ、と思う。

 
 そうそう、私は思うんですよ。生殖も、生活インフラも、医療サービスも、「現在の個人の諸権利を守るためなら、子々孫々のことは一切考慮せずに全力疾走ホップステップジャンプの精神でまいります!」っていうなら、それはそれでひとつの意見だと思うんですよね。思想上、私はそういう人間の敵ですが、とりあえず意見としては筋が通っているし、諸権利を守る聖戦士のみなさんは、こういう全裸ポーズでオピニオンを言ったっていいと思うんです。
 
 ああ、こういう事を書くからには、私も少しぐらいオピニオンってやつを書かなければならないと思うので書くと、「現在の世代のサービス等を漸減させてでも、後発世代がカタストロフに直面しないよう最善を尽くすべき」「いかなる諸権利を守るための思想や運動も、社会に徹底されれば作用よりも副作用が目立つようになるのが社会の公理」というオピニオンを持っています。そしていささか悲観的です。総じて、あまり趣味が良くないと自分自身のことを思っています。
 
 話を戻します。
 
 たとえばの話ですが、「現在の個人の諸権利を守るためなら、子々孫々のことは一切考慮せずに全力疾走ホップステップジャンプの精神でまいります!」という潔さで旗を振ったらどうなるでしょうか。
 
 そうですね、わかりやすいところで、誰かが「昭和党」を結成して比例代表議席獲得を目指したとしましょう。党のマニフェストは「昭和生まれの個人の諸権利を守るためなら、平成生まれのことは一切考慮せずに全力疾走ホップステップジャンプの精神でまいります!医療サービスも、インフラも、昭和生まれの諸権利は絶対に今までどおりに保証します!ただし、平成生まれの諸権利がどうなるかは一切考えません!現在の諸権利を守らなくてどうするんですか!」あたりで。
 
 で、この潔い「昭和党」、はたして当選するでしょうか。
 
 私はしないと思います。それなりの選挙資金力をもってしてすら、「昭和党」は比例代表で満足に当選できないのではないでしょうか。
 
 だって、そういう潔さって、一般的には敬遠するじゃないですか。
 
 言説空間で全裸になって討死するより、体裁を良くみせてサバイブするのが大人コミュニケーションの典型というか。人間社会と人間心理において体裁や繕いが占めるウエイトってのは、やはり馬鹿にはなりません。他人に対して表明するのであれ、自分自身に言い聞かせるのであれ。
 
 せめて自分の世代、自分の生きている間だけは盤石でいたい。だってそうじゃないと自分の余命や余暇が冒されるじゃないか。そう思う人は多いはずです。一般論としての人間は、自分が後発世代に何をもたらしているのか、自分が生きた影響が後世に何を残すのか、その綺麗な面を考えたがり、汚い面や負の面を考えたがらない生き物です*1。「今の諸権利のためなら、未来の諸権利など知らぬ」と言い放つよりも「今の諸権利を守りましょう、未来の諸権利もできるだけ守れるといいですね」のほうが好きで、なかには「今の諸権利を守りましょう、そうすれば未来の諸権利も守られるに決まっている!」と思わなければやってられないのが人情、ってやつではないでしょうか。
 
 だから、喩えに持ってきた「昭和党」のような全裸マニフェストを真正面から支持できる人って、少数はいても多数はいないと思うんです。人間は、有権者は、「もっと玉虫色のマニフェストを持ってこいよ」って考えるでしょうし、また、そのような政党に投票するでしょう。
 
 結局、見たいものだけ見て、考えたいものだけ考えるのが人間(の大半)なのですから、ある運動のネガティブな面には蓋をしながらポジティブな面を遥拝したがるのが、私達なんだと、私は思っていますよ。支持するのも、支持されるのも、もっと玉虫色のマニフェストなんですよ。悪しき結果も含めたキレッキレのマニフェストに、人間は耐えられません。ここに、自己欺瞞の共犯関係が生まれる余地があると言わざるを得ませんが。
 
 で、そうやって意思決定のプロセスのなかに自己欺瞞の共犯関係が生まれることで、潔いマニフェストではなく、多かれ少なかれ玉虫色のマニフェストが、そして政策決定が為されることになります。いやいや政策決定なんて言うと一部の人の決めることみたく聞こえるかもしれませんから、「世論もそうですよ」と付け加えておきましょうか。
 
 それで良いともいえるし、良くないともいえるでしょう。人間の、社会の、性質がそういうものだと理解したうえで、愛するなり憎むなり達観したふりなりしましょう。愛憎? それもいいですね、っていうか私はたぶんそれです。
 
 でもまあ、わかりやすい医療サービスやインフラの点を一歩離れて考えれば、現在の資本主義システムやグローバリゼーション、うな重やエビカツバーガーにしたって、「今の諸権利の恩恵に与ることが、未来の諸権利の恩恵を保証しているか」って言ったらこれ全然わかりませんよね。というか、たぶん未来の諸権利は暗そうですよね。そうやって、うな重が、エビカツバーガーが、遠くなっていく。うな重はテクノロジーによって甦るかもしれないけれど、全部テクノロジーにお任せできるかどうやら。うな重のような細かな点は抜きにして、私達が享受している暮らしが再生可能なのか、未来に向かって開かれているのかは、いつも怪しがっておく必要があると私は思います。
 
 で、怪しがったうえで、それらを享受している私達の今の暮らしを、せめてにせよ傲岸不遜にせよありがたがって楽しんでおきたいなぁとも思っています。「21世紀の暮らし」ってやつを。願わくは、ローマ帝国崩壊後の人々がローマ帝国盛期の生活を想像するような面持ちで「21世紀の暮らし」を思い出しませんように。
 
 なんにせよ、私達と現代社会はいろんなものを犠牲にしながら、一度きりのものとしながら、生きているのだと思います。それは罪深いことかもしれないし、尊いことかもしれない。しかし生きてしまっている以上は、目を開いたまま生きていきたいものです。未来をバリバリと貪り食っているかもしれない自分自身を顧みながら、できるだけ正気でいたいものです。
 
 でも、「昭和党」がきっと当選しないのと同様に、そういう自覚を玉虫色の言説で麻酔しておくほうがいいのかもしれません。あまり考えなくて済みますし。で、そうやって自他に対してほどこした精神の化粧もまた、それはそれで人間らしいし、それも含めての娑婆世界と捉えるのが筋なんでしょう。あとは、それを愛するのか、憎むのか、私のように愛憎入り混じった感情を抱くのかは人それぞれということで。
 
 そろそろ時間なのでやめますが、こういう事を考えはじめると、なにやら「そもそも、生きて快楽を追求することに意味はあるやなしや」みたいな事を考えたくなってきて、シナプスの無駄遣い感が出てきて楽しいですね。大学生の頃のように正座して『暴いておやりよドルバッキー』を聴けなくなってしまった中年アカウントからは、以上です。
 

*1:もちろん私も同じ穴のムジナですよ。

ドMなのは、ブログじゃなくて、あなたじゃないんですか

 
www.pojihiguma.com
 
 「結果が出ねえ」という“泣き言”や“不安”について。
 
 ブログを四か月書いている人が、皆が皆、そのような“泣き言”や“不安”を表明していて問題意識が共有されているなら、なるほどブログというメディアの問題ですね、と考えたくなります。しかし、生き残っているブロガーも、じきに消えていったブロガーも、そういう悩み方をあまりしていなかったように思います。
 
 くわえて、インターネット歴15年ともなれば、インターネットにおけるアテンションの集中や離散についても経験蓄積しているはずで、一般的には、そうした経験蓄積は“泣き言”や“不安”を緩和すると私は考えます。逆に言うと、インターネットアクティブ勢として15年も経験を蓄積しているにも関わらず、いまだ“泣き言”や“不安”にとらわれ制御が難しいと感じていらっしゃるとしたら、なおさら、レアケースという印象をぬぐえません。
 
 ポジ熊さん、ブログがドMなのではなく、あなたがドMなんじゃないんですか?
 
 あるいはこの問題は、ブログというメディアの問題や特質というより、あなたという個人の性質を反映したものではないでしょうか?
 
 もし、上記が“芸”や“ブログプロレス”であって悩みの吐露ではないのとしたら、完全に頓珍漢な推測かもしれませんが。
 

グリーンスライムを殴って構わないのは毒物耐性を取ったブロガーだけ

 
ほっこりスイーツブロガーの悩み - Hagex-day info
 
 hagexさんからお手紙を頂くとはびっくり仰天。論旨はまことそのとおりで、長くブログを続けているうちに自分達の打撃力が上がってしまったのか、守備力の脆弱なブロガーやアカウントが増えてしまったのか、それともインターネットにおいて打撃を与える/食うことの意味が変容してしまったのか、とにかくも、「いわゆるタフなネットアカウント」がごく限られてしまいましたね。
 
 でもって、長生きできる程度にタフなネットアカウントほど用心深い傾向にもあるというか、「タフで隙だらけのネットアカウント」って意外と少ないですよね。古参はもとより、若手のタフなネットアカウントも、タフそうな奴ほど用心深いと私は感じています。「ゾンビ」ってインターネットにそんなにいませんよね、目に付くのは敏捷性や回避率も高く、そのうえタフで、反撃力・自衛力もそれなり持ったアカウントばかり。
 
 他方、ああ、これこそトマホーク誘導ミサイルのターゲットぜよ! っていうアカウントは、大抵脆そうでガラス細工のようです。繊細に取り扱わないとドリームが壊れちゃうような気がして、いや、放置しておいても東京都内の雪のように溶けてしまって残念だなぁと思ってしまうのです。
 
 むろん、「砕けそうなガラス細工を木端微塵にしてみる」ってのも面白そうですし、一歩進んで「オーバーキルなダメージをできるだけ減らし、悪評のお釣りが出ないようにトドメを刺す」なんてのもエレガントかもしれません。
 
 しかし、みみずだって、おけらだって、あめんぼだって、みんなみんな生きているわけですから、衝動的な喜びに身を任せるより、虫眼鏡で観察しノートに書き残したほうが社会的に望ましい振る舞いなのでしょう。
 
 2015年は昆虫の大発生のようにブロガーが生まれ、今も生を謳歌しているものもあれば、息も絶え絶えになっているものもあります。彼らとて「ブログを!私を!収益を!見て欲しい」のでしょうから、わかりました、とくと拝見いたします、観察いたします、の精神で、インターネットの野生の王国を学ばせて頂ければと思っております。

 
 となると、繊細な精神にはむやみにじゃれつかず、丈夫そうな御方を探すべきだと思うのですが、

 だからこそ、多少言及しても壊れない、高知のリコピン先輩、億単位の金をキャバクラで溶かした家入氏、さきっちょの相棒とかは、気兼ねなくコメントできるのでありがたいですね。

 これ、物騒なリストですねぇ。
 
 確かに、これらの御仁は気兼ねなくコメントしても壊れないでしょう。万が一、これらの御仁を一撃で仕留めることができようものなら、「○○スレイヤー」の称号を頂戴できるかもしれませんね。
 
 ただし、清潔じゃないのが私の懸念するところです。
 
 ハゲ子先輩ならば、いかなるアカウントへの言及も無毒・中和化できるかもしれませんが、私はそこまで無毒化スキルを取得していないので、ある種のネットアカウントに言及すると魂に1~6ポイントのダメージを負ってしまいます。ブログの威信値とかそういう問題以前に、言及すると堪えるアカウントってあると思うんですよ。ハゲ子先輩のリストを眺めていると、「ああ、これはタフだけど手を出しちゃまずいんじゃないのかな」的な懸念が沸々とわいてきます。悪酔いしそうなお酒みたいなリストじゃないですか。
 
 毒物耐性や疾病耐性のスキルを取得したブロガーなら、まあグリーンスライムだろうが腐った死体だろうが、とにかくタフであれば稽古の相手として良いのかもしれません。でも、その点では私はハゲ子先輩に比べてスキル取得が甘いというか、むしろ毒物耐性を幾らか失って別方面を強化した「デッキ」に仕上げてしまったものですから、こいつタフだぜハハハってなんでもかんでも挑みかかっていったら自分が死ぬというか、失うものが大きいんじゃないかと今は考えております。
 
 私だって、おおきなグリーンスライムを、耐性を持ったブロガーのみなさまがボヨンボヨヨンと殴っているさまを眺めて羨ましいと思うことはあります。どれだけ斬っても叩いても受け止めてくれるおおきなおおきなグリーンスライム! しかも炎上耐性まであるからオイルもたいまつも効かない!なんて魅力的なんでしょう! でも私が選んだブロガースキルがそれを許してくれないので、指をくわえて眺めていようかと思っています。
 

「人間はまるで蠅のようにふえ……。」

 今日の写経。
 

 「いかなる人間も方法ではなくて目的として取扱わなければならない」というカントの説が公式化されたのは、ちょうど、機械的産業が労働者を一つの手段として、すなわちより安価な機械的生産への一手段として扱いはじめた頃であった。人間は土地に対すると同じような冷酷な心で扱われ、労働は搾取され、掘りだされ、取りつくされて、結局は棄てられるべき一資源であった。そして労働者の生命と健康とにたいする責任は、日傭賃金の現金支払によって事終れりとされた。
 人間はまるで蠅のようにふえ、産業適齢期の十歳から十二歳に達するとすぐ織物工場や鉱山で年期で使われ、やがて医者にかかることもなく死んでいった。旧技術期のはじめには、彼等労働者の平均寿命は中産階級のそれよりも実に二十年も短かった。そして過去数世紀にわたっておもむろに進行してきた労働状態の頽廃は、イギリスの実業家の狡さと近視眼的な貪欲のため、十八世紀のイギリスでそのどん底に達した。旧技術期にイギリスより遅れて入った国々でも、これと同じ無残な現象が現れたが、イギリスはその先頭に立っていたのである。

 
 ルイス・マンフォード 著 生田勉 訳 『技術と文明』美術出版社、1972、P214-215より抜粋
 

amamakoさんのような若手ブロガーを見かけない

 
あままこのブログ
 
 これは観測範囲の問題を含んでいるので、不勉強な私に「こんな素敵なブログがあるよ!」って教えてくれる人がいたら嬉しいんだけど、
 
 id:amamakoさんのような、尖ったガラスの破片のごときブログを、ここ2年ほど見かけない。
 
 「若気の至りなブログ」や「痛々しいブログ」なら幾らでもある。ほら、はてなブログ方面を見ればいい。十代~二十代のどころか三十代~四十代まで、新進気鋭のブロガーのうちに「うわぁ……」と讃えたくなるような文章を吐き出して憚らないブログがゴロゴロしている。
 
 ブロガーが恥知らずであることは罪ではない。若気の至りであること、「俺たちって最高!」であることも罪ではない。お戯れの対象とみなされるのは必然だが、それが必要なプロセスという人も多いだろう。私だってそうだった*1し。
 
 だが、かつてのamamakoさん――その昔はrir6、sjs7などのハンドルネームも名乗っていた――のような、メリットやデメリットの計算も行わず衝動の赴くまま(しかし本人は熟考しているつもりである)文章を迸らせるようなブロガーはなかなか見かけない。「触るものは皆傷つけるようなブロガー」「無軌道のまま、目をつむって滅茶苦茶にナイフを振り回すようなブロガー」も見当たらない。
 
 断っておくが、かつてのamamakoさんが「衝動的なブロガーだった」とか、そういう単純な評価をしたいわけではない。
 
 衝動的なブロガーはともかく、衝動的なアカウントならニコニコ生放送twitterに幾らでもいる。だが、そのような衝動的なアカウントは、刃物にたとえるなら鈍器にほとんど近いハンドアックスやブロードソードみたいなもので、amamakoさんに備わっていたような、研ぎ澄まされたサーベルやシャムシールのような切れ味を備えているわけではない。 
 
 サーベルやシャムシールに例えると、当時のamamakoさんが「切れ者」であるかのような印象を与えてしまうかもしれないので補足しておくと、彼はそんな洗練された武器よりも、「使う者自身が怪我しかねない、危ない刃物が四方八方に伸びているような不安定な尖った何か」だった。武器ではなく「尖ったガラスの破片」「切り出されたばかりの黒曜石」と例えたほうが適切だかもしれない。とにかく、尖ってはいるけれども使い物にならず、そういう尖ったアカウントが目茶目茶にネット中二病をかましているような、言語化するとロクでもないような何かだった。
 
 ところが、今日のはてなブログ界隈、いや、twitter界隈などをみていても、かつてのamamakoさんのような目茶目茶なガラスの破片に相当する人はぜんぜん見かけない。
 
 尖った若者アカウント。これはいる。いや、尖ったキャラクターと言うべきか。キャラが立っていて、なんのために・どのように尖っているのかをはっきり意識した若者。本人がはっきりとキャラ立てを意識しているぶん、尖り具合はキャラクターの内側に回収されていて、そのぶん安全でわかりやすい。
 
 中二病的な若者アカウントもたくさんいる。だが、そのようなアカウントにも彼らなりの“計算”や“打算”が見え隠れしていて、「黒ひげ危機一髪」のようなハプニング性がかえって損なわれている。最も上等な水準から最も下等な水準まで、とにかくも“計算”や“打算”、政治的配慮、コミュニケーション、といったものを意識しているから、良くも悪くもそれらに絡めとられていている。
 
 社会批判やマジョリティへの弾劾を書き連ねるアカウントですら、2010年代のインターネットの空気のもとでは若いうちからキャラ化してしまうというか、コミュニケーションの網目に適応し過ぎてしまって、そういう意味では掴みやすくなってしまっているようにみえる。掴みやすいキャラほど、暫し眺めて、飽きてしまう。
 
 要は、現代の若いアカウントの中二病・尖り具合・衝動性ってのは、へたにキャラが立っているものだから、わかったことにしてしまいやすすぎる、のだと思う。本当にそのアカウントの“なかのひと”を理解しているかどうかは抜きに
 
 「中二病の様式が変わってしまって、amamakoさん風の、それか“はてなダイアリー風”の、と言うべきか、そういう尖り方がみられなくなってしまった」と言えば古いはてなユーザーにはニュアンスが伝わるかもしれない。
 
 振り返ってみると、amamakoさんというアカウント、あるいは「現象」は、00年代風の思春期心性の一形態だったのであって、『シュタインズゲート』や『中二病でも恋がしたい!』を楽しんでしまった後の2010年代中盤以降には遭遇しにくいものだった、と言わざるを得ない。
 
 本当は、私の観測範囲の問題と、インターネットのスポットライトの当たり具合の問題でしかないと信じたい。言葉のナイフをめくらめっぽうに振り回しながら、眠れない午前二時に苛立っているアカウントがどこかに群生しているとしたら、私は嬉しい。というより、そういうアカウントの群生地帯を見つけたら安堵するだろう。だが、そのような「ガラスの破片の理想郷」を私は発見できていない。
 
 このほか、ブルーシートオフ会的な習俗も観察しなくなったなぁ……と思う。今、ああいうタイプの若者同士がオフ会で繋がることってどれぐらいあるんだろうか? コミュニケーション親和的な若者がオフライン/オンラインも区別なく交流しているのは当然として、かつてのamamakoさんのような、コミュニケーション親和的とは言い難い黒曜石が素のまま交流しているハブステーション、あるいは居場所を、私はなかなか想像できない。ほかのインターネット古参兵な皆さんは、そういうガラスの破片をどこで新規発掘しているのだろう?
 

*1:ん?過去系にしていいのかな?お戯れなシロクマさんよ?

なんでもかんでもはてなブログのせいにしちゃいけないんだろうけど。

  
azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 やっべーイラスト付きで俺のことがdisられてるよ!
 最近うっすら自覚もあったので、半月ほど前に書いた文章をコピペしておきますね。↓




 
 なんでもかんでも「メディウム(メディア)」や「アーキテクチャ」のせいにしちゃいけないんだろうけど。
 
 はてなブログに移行して以来、1000字~2000字程度の、自分としては物足りず、事物を語るに尺の足りないブログ記事、いやブログ記事と呼べるかどうかもわからない短冊を大量生産してしまうようになって、これの在庫がダブついてきた。
 
 もともと私には「ブログの文章が書けて書けてしようがない時期」と「どう頑張っても書けない時期」がある。そのうえ原稿とかそういう方面にエネルギーを持っていかれることもあるため、ブログ記事を複数ストックし、間を埋めたり、それらしいイベントがあった好機に放流したりして更新頻度の間を持たせるようなことをする。だからブログ記事を一日に複数個作って貯めることもあったのだが……。
 
 最近、やたら数が生まれるようになって、しかも、気が付けば文章が短いのだ。
 
 はてなダイアリー時代の私は、1000~2000字のブログ記事を書くことが少なかった。たぶん苦手だったと思う。2500~5000字ぐらいのものが多かった。それぐらいでやっと「ひとまとまり」といった雰囲気だったわけだ。
 
 ところが手元には1000字~2000字の、子分のようなブログ記事下書きがコロコロ転がっている。まあ、これはこれでそんなに出来が悪いとは思わない。でも、なんだかはてなダイアリー『シロクマの屑籠』らしくない。むしろ、そこらに棲息しているはてなブロガーの記事みたいだ。まあまあだが「私らしくない」。2016年において「私らしくない」だなんて書くと阿呆みたいだけど、常連読者の人もそう思うんじゃないかという気がする。匂いが違う。
 
 長い下書きもそれなりできあがる。しかしそれ以上に湧いてくる1000~2000字の文章がポコポコ生まれたとして、これらをどうしたものか。ある程度はブログに投入して良いだろうけど、ある部分からは「不良債権」になりそうな気がする。まさか、無理に文字量を増やすなんてことはできない。もともと、ライターみたく簡潔な文章を書くのは下手な人間なんだから、ボリュームをかさましするとひどい出来栄えになるだろう。困ったなぁ。
 
 はてなブログのせいにして良いのか、それともはてなブログを大量に読んできて文化的に馴染んでしまったのか、いやいや自分自身のエネルギーの問題なのかわからないけど、まとまりの乏しい思考の火花を散らしても後にはなんにも残らないから、これは私のブログ大戦略にとって不利な変化だとは思う。や、人によってはこれが最適ってこともあるだろうけど、今の私には不利だろうなって話で。

  
 
 これよなぁ。よそのはてなブログは知らないけれど、『シロクマの屑籠』は読みやすければ良いってもんじゃないよなー。書き手にとっても、読み手にとっても。はてなダイアリー的な何かを取り戻さなければ。
 

 
 あまり他人のせいにせず、努力しろってことですよね。努力しましょうかね。はい、努力します。おわり。
 


 
 

シロクマ(熊代亨)の著書