シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

散ればこそ いとどブログは めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき

 

 
nectaris.hatenablog.com
 
 リンクを辿ってウロウロしていたらidコールされているのに気づきました。なので、お手紙を書いてみます。
 
 今回の“騒動”の経緯についてはnectarisさんが大筋をまとめて下さったので、振り返りたい時には便利そうだ思いました。備忘録として利用したいので、なるべくブログを消さないでください。
 
 さておき、今回の私は互助会・プロブロガーの是非について意見表明していませんが、無関係ではない文章は書いたつもりです。
 
 
 [関連]:ネットで有名になるリスク - シロクマの屑籠
 [関連]:インターネットは人生劇場で、アカウントは「おまいらの人生の物語」だ - シロクマの屑籠
 
 これらは、互助会ブックマークやプロブロガーの是非を論じてはいませんが、私自身のブログ大戦略と、他のブロガーのブログ大戦略について書いたものに相違ありません。
 
 そのことを踏まえて私見を申しますと、
 
 ・原則としては、どのようにブログを運営し、何を賭けて何を目指すのかは個人の自由と考える*1
 ・しかし私には私自身のブログ大戦略があり、それはブロガーとして生存し続けるには有効な手段の一つと考えている。
 ・ブログを書く目的が私のそれに近いブロガーは、私のブログ大戦略に近いストラテジーを選択することが有効と推定されるが、私のそれとは遠いブロガーにおいては、この限りではない。
 ・主観的には、私に似たタイプのブロガーが多い時代のほうが好みだったのは否めず、お金目当てにブログを更新するブロガーが目立って仕方がない状況は、必ずしも好みではない。
 ・だが、現在のブロゴスフィアにも楽しむ余地はある。
 
 といったところになるでしょうか。
 
 他方、hagexさんに心を覗かれた気がする文章をも見かけました。
 
 [関連]:プロブロガーという人生をかけた一発ギャグ - Hagex-day info
 
 あー、これに近いことは考えちゃうかなー。
 
 

ブロガーの命の蝋燭

 

 
 私は、自分自身も含めてブロガーの命の蝋燭をいつも気にしているつもりです。
 
 たとえ話になりますが、
 

 はてな村の山奥、新興住宅地からは遠く離れた某所には、ブロガーのステータスが一目でわかる命の蝋燭を司っている古刹があります。和尚様のおゆるしを頂いて秘密の部屋を覗いてみると、私も含め、たくさんのブロガーの名前が刻み込まれた真っ赤な蝋燭が、ゆらゆらと炎を揺らしているのですよ。
 
 蝋燭Aは、太くて長いわりにはチビチビと燃え続け、消える気配がありません。
 
 蝋燭Bは、細くて頼りなくて、隙間が吹くたびにゆらゆら揺れて危なっかしい限りですが、揮発性の高い成分が混じっているのか、ゴウゴウと勢いよく燃えています。
 
 蝋燭Cは、長らく燃え続けて限界に達したのか、燭台の底のほうで、かすかに残り火を点すだけになっています。
 
 蝋燭Dは、あまりにも激しく燃えていたので、和尚様が消化器で消してしまわれました。

 
 私は、ブロガーの命の蝋燭がゆらめいているのを眺めているだけでも退屈しません。ああ、命だ、命は力だ、このインターネットを動かす根源だ、と。そして蝋燭の炎のゆらめきは執着! 執着によって蝋燭は燃え、ゆらめき、ときには我が身を燃やしすぎて消し飛びます。
 
 リンク先でhagexさんがおっしゃっているように、人生の浮沈、ブロガーの浮沈にはドラマがあります。朽ちていく蝋燭のドラマが趣深いのは言うまでもありませんが、わが世の春を謳歌せんばかりに燃え盛る蝋燭にもドラマがありますね。
 
 散ればこそ いとどブログは めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
 
 と同時に私は、ドラマとして・娯楽として彼らをウォッチしていられる良い立場にあるのではなく、私自身もまたブロガーであり、ブロガーである以上(そして人間である以上)、諸行無常と盛者必衰のことわりを逃れることができないと覚悟しなければなりません。
 
 はてな村の古刹*2に並んでいる蝋燭のなかには、私の名前も、あなたの名前もあるのです。それは哀しいことですか?それでもYESと言えますか?
 
 百獣の王・ライオンとて、老いて病を得ればハイエナの餌となって骨までしゃぶり尽くされるのと同じように、どんなブロガーも、いつかは衰え躓き、食いものや笑いものにされるのが定めなのだと私は覚悟しています。短慮にも生き急ぐをブロガーを笑うのは簡単だし、私は「彼ら」よりも用心深いつもりではあります。だからといって、私がネットのハイエナ達の餌食にならないかと言ったらそうではない。人目を集めないままひっそりと消えていけるなら幸福というもの、きっと私も、いつかやらかして、朽ちていくのでしょう。
 
 「猛き者もついには滅びぬ。単に風の前の塵に同じ。」とはブロガーにも言えることです。他のブロガーの成否を教訓として、一日でも長くブログを書き続けたいものです。そして命の蝋燭が残っている限り、その限りある命をなるべく良き目的のために、導き、守っていきたいと思います。
 

*1:スパムの問題、ネット知的財産の汚染問題はあるが、ここでは触れない

*2:古刹と書いてサーバと読む

グリーンスライムを殴って構わないのは毒物耐性を取ったブロガーだけ

 
ほっこりスイーツブロガーの悩み - Hagex-day info
 
 hagexさんからお手紙を頂くとはびっくり仰天。論旨はまことそのとおりで、長くブログを続けているうちに自分達の打撃力が上がってしまったのか、守備力の脆弱なブロガーやアカウントが増えてしまったのか、それともインターネットにおいて打撃を与える/食うことの意味が変容してしまったのか、とにかくも、「いわゆるタフなネットアカウント」がごく限られてしまいましたね。
 
 でもって、長生きできる程度にタフなネットアカウントほど用心深い傾向にもあるというか、「タフで隙だらけのネットアカウント」って意外と少ないですよね。古参はもとより、若手のタフなネットアカウントも、タフそうな奴ほど用心深いと私は感じています。「ゾンビ」ってインターネットにそんなにいませんよね、目に付くのは敏捷性や回避率も高く、そのうえタフで、反撃力・自衛力もそれなり持ったアカウントばかり。
 
 他方、ああ、これこそトマホーク誘導ミサイルのターゲットぜよ! っていうアカウントは、大抵脆そうでガラス細工のようです。繊細に取り扱わないとドリームが壊れちゃうような気がして、いや、放置しておいても東京都内の雪のように溶けてしまって残念だなぁと思ってしまうのです。
 
 むろん、「砕けそうなガラス細工を木端微塵にしてみる」ってのも面白そうですし、一歩進んで「オーバーキルなダメージをできるだけ減らし、悪評のお釣りが出ないようにトドメを刺す」なんてのもエレガントかもしれません。
 
 しかし、みみずだって、おけらだって、あめんぼだって、みんなみんな生きているわけですから、衝動的な喜びに身を任せるより、虫眼鏡で観察しノートに書き残したほうが社会的に望ましい振る舞いなのでしょう。
 
 2015年は昆虫の大発生のようにブロガーが生まれ、今も生を謳歌しているものもあれば、息も絶え絶えになっているものもあります。彼らとて「ブログを!私を!収益を!見て欲しい」のでしょうから、わかりました、とくと拝見いたします、観察いたします、の精神で、インターネットの野生の王国を学ばせて頂ければと思っております。

 
 となると、繊細な精神にはむやみにじゃれつかず、丈夫そうな御方を探すべきだと思うのですが、

 だからこそ、多少言及しても壊れない、高知のリコピン先輩、億単位の金をキャバクラで溶かした家入氏、さきっちょの相棒とかは、気兼ねなくコメントできるのでありがたいですね。

 これ、物騒なリストですねぇ。
 
 確かに、これらの御仁は気兼ねなくコメントしても壊れないでしょう。万が一、これらの御仁を一撃で仕留めることができようものなら、「○○スレイヤー」の称号を頂戴できるかもしれませんね。
 
 ただし、清潔じゃないのが私の懸念するところです。
 
 ハゲ子先輩ならば、いかなるアカウントへの言及も無毒・中和化できるかもしれませんが、私はそこまで無毒化スキルを取得していないので、ある種のネットアカウントに言及すると魂に1~6ポイントのダメージを負ってしまいます。ブログの威信値とかそういう問題以前に、言及すると堪えるアカウントってあると思うんですよ。ハゲ子先輩のリストを眺めていると、「ああ、これはタフだけど手を出しちゃまずいんじゃないのかな」的な懸念が沸々とわいてきます。悪酔いしそうなお酒みたいなリストじゃないですか。
 
 毒物耐性や疾病耐性のスキルを取得したブロガーなら、まあグリーンスライムだろうが腐った死体だろうが、とにかくタフであれば稽古の相手として良いのかもしれません。でも、その点では私はハゲ子先輩に比べてスキル取得が甘いというか、むしろ毒物耐性を幾らか失って別方面を強化した「デッキ」に仕上げてしまったものですから、こいつタフだぜハハハってなんでもかんでも挑みかかっていったら自分が死ぬというか、失うものが大きいんじゃないかと今は考えております。
 
 私だって、おおきなグリーンスライムを、耐性を持ったブロガーのみなさまがボヨンボヨヨンと殴っているさまを眺めて羨ましいと思うことはあります。どれだけ斬っても叩いても受け止めてくれるおおきなおおきなグリーンスライム! しかも炎上耐性まであるからオイルもたいまつも効かない!なんて魅力的なんでしょう! でも私が選んだブロガースキルがそれを許してくれないので、指をくわえて眺めていようかと思っています。
 

amamakoさんのような若手ブロガーを見かけない

 
あままこのブログ
 
 これは観測範囲の問題を含んでいるので、不勉強な私に「こんな素敵なブログがあるよ!」って教えてくれる人がいたら嬉しいんだけど、
 
 id:amamakoさんのような、尖ったガラスの破片のごときブログを、ここ2年ほど見かけない。
 
 「若気の至りなブログ」や「痛々しいブログ」なら幾らでもある。ほら、はてなブログ方面を見ればいい。十代~二十代のどころか三十代~四十代まで、新進気鋭のブロガーのうちに「うわぁ……」と讃えたくなるような文章を吐き出して憚らないブログがゴロゴロしている。
 
 ブロガーが恥知らずであることは罪ではない。若気の至りであること、「俺たちって最高!」であることも罪ではない。お戯れの対象とみなされるのは必然だが、それが必要なプロセスという人も多いだろう。私だってそうだった*1し。
 
 だが、かつてのamamakoさん――その昔はrir6、sjs7などのハンドルネームも名乗っていた――のような、メリットやデメリットの計算も行わず衝動の赴くまま(しかし本人は熟考しているつもりである)文章を迸らせるようなブロガーはなかなか見かけない。「触るものは皆傷つけるようなブロガー」「無軌道のまま、目をつむって滅茶苦茶にナイフを振り回すようなブロガー」も見当たらない。
 
 断っておくが、かつてのamamakoさんが「衝動的なブロガーだった」とか、そういう単純な評価をしたいわけではない。
 
 衝動的なブロガーはともかく、衝動的なアカウントならニコニコ生放送twitterに幾らでもいる。だが、そのような衝動的なアカウントは、刃物にたとえるなら鈍器にほとんど近いハンドアックスやブロードソードみたいなもので、amamakoさんに備わっていたような、研ぎ澄まされたサーベルやシャムシールのような切れ味を備えているわけではない。 
 
 サーベルやシャムシールに例えると、当時のamamakoさんが「切れ者」であるかのような印象を与えてしまうかもしれないので補足しておくと、彼はそんな洗練された武器よりも、「使う者自身が怪我しかねない、危ない刃物が四方八方に伸びているような不安定な尖った何か」だった。武器ではなく「尖ったガラスの破片」「切り出されたばかりの黒曜石」と例えたほうが適切だかもしれない。とにかく、尖ってはいるけれども使い物にならず、そういう尖ったアカウントが目茶目茶にネット中二病をかましているような、言語化するとロクでもないような何かだった。
 
 ところが、今日のはてなブログ界隈、いや、twitter界隈などをみていても、かつてのamamakoさんのような目茶目茶なガラスの破片に相当する人はぜんぜん見かけない。
 
 尖った若者アカウント。これはいる。いや、尖ったキャラクターと言うべきか。キャラが立っていて、なんのために・どのように尖っているのかをはっきり意識した若者。本人がはっきりとキャラ立てを意識しているぶん、尖り具合はキャラクターの内側に回収されていて、そのぶん安全でわかりやすい。
 
 中二病的な若者アカウントもたくさんいる。だが、そのようなアカウントにも彼らなりの“計算”や“打算”が見え隠れしていて、「黒ひげ危機一髪」のようなハプニング性がかえって損なわれている。最も上等な水準から最も下等な水準まで、とにかくも“計算”や“打算”、政治的配慮、コミュニケーション、といったものを意識しているから、良くも悪くもそれらに絡めとられていている。
 
 社会批判やマジョリティへの弾劾を書き連ねるアカウントですら、2010年代のインターネットの空気のもとでは若いうちからキャラ化してしまうというか、コミュニケーションの網目に適応し過ぎてしまって、そういう意味では掴みやすくなってしまっているようにみえる。掴みやすいキャラほど、暫し眺めて、飽きてしまう。
 
 要は、現代の若いアカウントの中二病・尖り具合・衝動性ってのは、へたにキャラが立っているものだから、わかったことにしてしまいやすすぎる、のだと思う。本当にそのアカウントの“なかのひと”を理解しているかどうかは抜きに
 
 「中二病の様式が変わってしまって、amamakoさん風の、それか“はてなダイアリー風”の、と言うべきか、そういう尖り方がみられなくなってしまった」と言えば古いはてなユーザーにはニュアンスが伝わるかもしれない。
 
 振り返ってみると、amamakoさんというアカウント、あるいは「現象」は、00年代風の思春期心性の一形態だったのであって、『シュタインズゲート』や『中二病でも恋がしたい!』を楽しんでしまった後の2010年代中盤以降には遭遇しにくいものだった、と言わざるを得ない。
 
 本当は、私の観測範囲の問題と、インターネットのスポットライトの当たり具合の問題でしかないと信じたい。言葉のナイフをめくらめっぽうに振り回しながら、眠れない午前二時に苛立っているアカウントがどこかに群生しているとしたら、私は嬉しい。というより、そういうアカウントの群生地帯を見つけたら安堵するだろう。だが、そのような「ガラスの破片の理想郷」を私は発見できていない。
 
 このほか、ブルーシートオフ会的な習俗も観察しなくなったなぁ……と思う。今、ああいうタイプの若者同士がオフ会で繋がることってどれぐらいあるんだろうか? コミュニケーション親和的な若者がオフライン/オンラインも区別なく交流しているのは当然として、かつてのamamakoさんのような、コミュニケーション親和的とは言い難い黒曜石が素のまま交流しているハブステーション、あるいは居場所を、私はなかなか想像できない。ほかのインターネット古参兵な皆さんは、そういうガラスの破片をどこで新規発掘しているのだろう?
 

*1:ん?過去系にしていいのかな?お戯れなシロクマさんよ?

なんでもかんでもはてなブログのせいにしちゃいけないんだろうけど。

  
azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 やっべーイラスト付きで俺のことがdisられてるよ!
 最近うっすら自覚もあったので、半月ほど前に書いた文章をコピペしておきますね。↓




 
 なんでもかんでも「メディウム(メディア)」や「アーキテクチャ」のせいにしちゃいけないんだろうけど。
 
 はてなブログに移行して以来、1000字~2000字程度の、自分としては物足りず、事物を語るに尺の足りないブログ記事、いやブログ記事と呼べるかどうかもわからない短冊を大量生産してしまうようになって、これの在庫がダブついてきた。
 
 もともと私には「ブログの文章が書けて書けてしようがない時期」と「どう頑張っても書けない時期」がある。そのうえ原稿とかそういう方面にエネルギーを持っていかれることもあるため、ブログ記事を複数ストックし、間を埋めたり、それらしいイベントがあった好機に放流したりして更新頻度の間を持たせるようなことをする。だからブログ記事を一日に複数個作って貯めることもあったのだが……。
 
 最近、やたら数が生まれるようになって、しかも、気が付けば文章が短いのだ。
 
 はてなダイアリー時代の私は、1000~2000字のブログ記事を書くことが少なかった。たぶん苦手だったと思う。2500~5000字ぐらいのものが多かった。それぐらいでやっと「ひとまとまり」といった雰囲気だったわけだ。
 
 ところが手元には1000字~2000字の、子分のようなブログ記事下書きがコロコロ転がっている。まあ、これはこれでそんなに出来が悪いとは思わない。でも、なんだかはてなダイアリー『シロクマの屑籠』らしくない。むしろ、そこらに棲息しているはてなブロガーの記事みたいだ。まあまあだが「私らしくない」。2016年において「私らしくない」だなんて書くと阿呆みたいだけど、常連読者の人もそう思うんじゃないかという気がする。匂いが違う。
 
 長い下書きもそれなりできあがる。しかしそれ以上に湧いてくる1000~2000字の文章がポコポコ生まれたとして、これらをどうしたものか。ある程度はブログに投入して良いだろうけど、ある部分からは「不良債権」になりそうな気がする。まさか、無理に文字量を増やすなんてことはできない。もともと、ライターみたく簡潔な文章を書くのは下手な人間なんだから、ボリュームをかさましするとひどい出来栄えになるだろう。困ったなぁ。
 
 はてなブログのせいにして良いのか、それともはてなブログを大量に読んできて文化的に馴染んでしまったのか、いやいや自分自身のエネルギーの問題なのかわからないけど、まとまりの乏しい思考の火花を散らしても後にはなんにも残らないから、これは私のブログ大戦略にとって不利な変化だとは思う。や、人によってはこれが最適ってこともあるだろうけど、今の私には不利だろうなって話で。

  
 
 これよなぁ。よそのはてなブログは知らないけれど、『シロクマの屑籠』は読みやすければ良いってもんじゃないよなー。書き手にとっても、読み手にとっても。はてなダイアリー的な何かを取り戻さなければ。
 

 
 あまり他人のせいにせず、努力しろってことですよね。努力しましょうかね。はい、努力します。おわり。
 


 
 

「お金のためのブロガー」を一律に軽蔑などできやしない

 私は自意識の露出や観測、自分語り、個人と切っても切れない文章を愛好するブロガーなので、そうしたブログを愛するし、またブロガーをいいなと思う。
 
 だからといって、「お金のためにブログ(や他のネットメディア)」を更新している人を一律に軽蔑することはない。軽蔑に値するような儲け方をしている人達は軽蔑に値するが、まっとうにやって奮闘しているところは、軽蔑するなんてとんでもないと思う。
 
 彼らは、私とはネットやブログに求めるものが異なる人種だから、そうした人達を積極的に好きになろうとか、読み込んでやろうとは思わないし、ますますインターネットが現金で舗装されるほどに、私の愛好するようなブロガーの領域は狭くなってしまうのかもしれない。だとしても、個々の優秀なプレイヤーを軽蔑してかかるのは、あまり良い習慣とは考えない。少なくとも、自分には出来ない(そしてやりたくない)ことをやってのけている人達というのは、たいしたものではないか。
 
 インターネットにおける現金・実利主義を嫌いたがる私の気持ちと、そこに携わり実際に(おおむねクリーンに)成功している人を評価する目線とを、ゴチャ混ぜにはしないようにしたい。「したい」とわざわざ表明したのは、時々、そのあたりを私が混同しているようなきらいがあるからだ。せめてこれからは、気を付けていきたい。
 

シロクマ(熊代亨)の著書