シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

効率の神を拝み過ぎてはいけない

 
 世の中が効率主義・能率主義になり、その意識が末端にまで浸透していったのに引きずられ、個人の人生観や成長観もまた、効率を重んじ、無駄を省くようになってきた。「意味の無い努力はしたくない」「努力の目利きをしておかないと気が済まない」みたいな発想も、そのあらわれと言える*1
 
 資本主義システムのもとでは、効率の良い労働生産性はそれ自体が美徳であり、しばしば生存の鍵にもなる。世間においても、「予算やリソースを効率的に使いなさい、無駄を省きなさい」が美徳とみなされている。生産者やサービス提供者だけでなく、消費者もまた、そういった効率性を美徳と思い込んでいる。控えめに言っても、効率の悪すぎる者・効率性を度外視する者が生きていくための余白は、この効率主義社会には乏しい。
 
 だから効率の神を believe in すること自体は悪いことではない。効率の神を憎んでいる人も、せいぜい、表向きは遥拝しておいたほうがいいだろう。
 
 ただ、効率性に賭けようとするあまり、効率厨になり過ぎるといろいろな副作用が発生する。特に、人生という再生産困難で一回性の甚だしい領域において、効率性なるものに憑かれ過ぎてしまうと色々な矛盾や齟齬や落ち度が生じてしまう。問題はいろいろあるが、例えば、
 
 
 1.現在認知可能な効率性は大抵しょっぱい
 人間とは無明な存在であり、認識には限界がつきまとう。体感しやすいのは、高校生時代に最適と思えた行動が社会人になった頃にはしょっぱい効率性にしかみえない現象など。あるいはネトゲ廃人になっている最中は、そのネトゲ脳に基づいて人生の効率性を計算し行動してしまうなど。
 
 ある時点で最適と思えた効率性が、他人や未来の自分からみれば非効率なものだった、というのは頻繁に起こる*2。自分が今最適と思っている効率性、特に人生やライフスタイルに関わる領域の効率性とは、曖昧さを帯びた暫定解に過ぎないと思ってかかったほうが無難だ。だから現在認知可能な効率性をある程度支持しつつも、常にそれ以外の可能性や意見に開かれていなければ、程度の低い効率性にいつまでもとどまってしまう可能性がある。現今の効率性計算だけに束縛される人は、同じところをグルグルしてしまい、人生経過についていけなくなる*3
 
 2.目新しい可能性が低迷する可能性
 1.に似た問題。特定領域の効率性に執心し特化すればするほど無駄や遊びがなくなり、それに伴って新しい可能性を開拓するインセンティブが下がる。人生において自分が手にするもの・触れるものの範囲を小さくしてしまう。人生は工場機械のようにはできていないし、殆どの人間の精神はそのような工場機械的効率性の向上だけでは満足してくれない。既知の効率性を多少犠牲にしてでも、目新しい可能性にもリソースを割り振る部分があったほうが自分自身の可能性に幅ができやすく、生物学的/社会的年齢の上昇にあわせた人生のギアチェンジを模索しやすくもなる。
 
 3.活きる意味の消失
 人生にはそれ固有の意味が無い。工場機械の場合は、特定の産品を生産することが生まれてきた意味(そして使命)であり、産品をつくればつくるほど、効率が良ければ良いほど、有意味ということになる。ところが人間の主観的な人生観には、生きている間に行うべく課せられた意味や使命が存在しない。身分社会のように、イエや身分が意味と使命を司り束縛していた時代ならいざ知らず、今日の社会では、人間が自らを機械になぞらえて特定の効率性だけを追求すれば mission complete というわけにはいかない。同じ作業を最適効率で続ける精神は、人間性を疎外されてしまいやすい*4
 
 もうちょっと控えめに言っても「どれだけ効率的にやれるのか」だけでは人は幸せにはなれない。それに先立って「何を効率的にやりたいのか」が問われなければならない――後者の問いを疎かにしていると人生の意味は容易く遭難してしまうが、効率性にだけ目が向いていると、そのことを忘れてしまいやすい。
 
 
 4.非効率を許せなくなってしまう危険
 狭義の宗教上の神の場合や、恋愛至上資本主義的な神の場合と同様に、効率の神を拝みまくって内面化し過ぎた人は、自分が非効率な事をやっていることを許せなくなってくることがある。寄り道・遠回り・一休みを嫌悪し、そのような局面で罪悪感や劣等感を感じるようになってしまったら大変だ。ひどくなると、他人の非効率性に対しても目くじらを立てるようになってしまい、そうなるとコミュニケーション上も心理的充足上も大きな足枷になりかねない。
 
 要はエディプス神経症に似たような構図がここでも現れるわけだ(あるいは、エディプス期的なテーマが効率の神の姿をとって現れたケース、とみたほうが適切なのかもしれない)。内面化された価値規範は人が生きていく指針たりえる、しかし、過度に束縛され融通が利かなくなれば祝福よりも呪いの側面を色濃くみせるようになる。
 
 
 1.2.3.4.を想起しただけでも、効率の神を拝み過ぎるのは危険きわまりなく、ある種の適当さ・ある種のアバウトさが必要と思わざるを得ない。この文章のタイトルは「効率の神を拝み過ぎてはいけない」だけど、これは効率の神に限った話でもない。ほとんどの人間にとって重要なのは特定の有用な価値観やポリシーを突き詰めることではなく、有用とみなされる価値観やポリシーに一定の親和性を持ちながらも遊びや剰余を忘れないことだと思う。どんなに有用な価値観やポリシーも、融通がきかなければ息苦しい。
 
 

*1:時計も発明されていなかった中世の人間には、こうした発想は至極困難だった。

*2:起こらないとしたら、よほど変化の無い人だ!

*3:ただし、世の中にごまんとある同じところをグルグルしてしまう人がグルグルする原因のすべてがこれに因っているわけではないことは付け加えておく

*4:ただし、これで消耗しないタイプの人間も稀にいる。しかし幸か不幸か、そのような同じ挙動を効率最優先で繰り返すような仕事の大半が、いまや機械に取って代わられつつある

シロクマ(熊代亨)の著書