シロクマの粘土板

本拠地は「シロクマの屑籠」です。こちらは現時点では別館扱いです。

ドMなのは、ブログじゃなくて、あなたじゃないんですか

 
www.pojihiguma.com
 
 「結果が出ねえ」という“泣き言”や“不安”について。
 
 ブログを四か月書いている人が、皆が皆、そのような“泣き言”や“不安”を表明していて問題意識が共有されているなら、なるほどブログというメディアの問題ですね、と考えたくなります。しかし、生き残っているブロガーも、じきに消えていったブロガーも、そういう悩み方をあまりしていなかったように思います。
 
 くわえて、インターネット歴15年ともなれば、インターネットにおけるアテンションの集中や離散についても経験蓄積しているはずで、一般的には、そうした経験蓄積は“泣き言”や“不安”を緩和すると私は考えます。逆に言うと、インターネットアクティブ勢として15年も経験を蓄積しているにも関わらず、いまだ“泣き言”や“不安”にとらわれ制御が難しいと感じていらっしゃるとしたら、なおさら、レアケースという印象をぬぐえません。
 
 ポジ熊さん、ブログがドMなのではなく、あなたがドMなんじゃないんですか?
 
 あるいはこの問題は、ブログというメディアの問題や特質というより、あなたという個人の性質を反映したものではないでしょうか?
 
 もし、上記が“芸”や“ブログプロレス”であって悩みの吐露ではないのとしたら、完全に頓珍漢な推測かもしれませんが。
 

グリーンスライムを殴って構わないのは毒物耐性を取ったブロガーだけ

 
ほっこりスイーツブロガーの悩み - Hagex-day info
 
 hagexさんからお手紙を頂くとはびっくり仰天。論旨はまことそのとおりで、長くブログを続けているうちに自分達の打撃力が上がってしまったのか、守備力の脆弱なブロガーやアカウントが増えてしまったのか、それともインターネットにおいて打撃を与える/食うことの意味が変容してしまったのか、とにかくも、「いわゆるタフなネットアカウント」がごく限られてしまいましたね。
 
 でもって、長生きできる程度にタフなネットアカウントほど用心深い傾向にもあるというか、「タフで隙だらけのネットアカウント」って意外と少ないですよね。古参はもとより、若手のタフなネットアカウントも、タフそうな奴ほど用心深いと私は感じています。「ゾンビ」ってインターネットにそんなにいませんよね、目に付くのは敏捷性や回避率も高く、そのうえタフで、反撃力・自衛力もそれなり持ったアカウントばかり。
 
 他方、ああ、これこそトマホーク誘導ミサイルのターゲットぜよ! っていうアカウントは、大抵脆そうでガラス細工のようです。繊細に取り扱わないとドリームが壊れちゃうような気がして、いや、放置しておいても東京都内の雪のように溶けてしまって残念だなぁと思ってしまうのです。
 
 むろん、「砕けそうなガラス細工を木端微塵にしてみる」ってのも面白そうですし、一歩進んで「オーバーキルなダメージをできるだけ減らし、悪評のお釣りが出ないようにトドメを刺す」なんてのもエレガントかもしれません。
 
 しかし、みみずだって、おけらだって、あめんぼだって、みんなみんな生きているわけですから、衝動的な喜びに身を任せるより、虫眼鏡で観察しノートに書き残したほうが社会的に望ましい振る舞いなのでしょう。
 
 2015年は昆虫の大発生のようにブロガーが生まれ、今も生を謳歌しているものもあれば、息も絶え絶えになっているものもあります。彼らとて「ブログを!私を!収益を!見て欲しい」のでしょうから、わかりました、とくと拝見いたします、観察いたします、の精神で、インターネットの野生の王国を学ばせて頂ければと思っております。

 
 となると、繊細な精神にはむやみにじゃれつかず、丈夫そうな御方を探すべきだと思うのですが、

 だからこそ、多少言及しても壊れない、高知のリコピン先輩、億単位の金をキャバクラで溶かした家入氏、さきっちょの相棒とかは、気兼ねなくコメントできるのでありがたいですね。

 これ、物騒なリストですねぇ。
 
 確かに、これらの御仁は気兼ねなくコメントしても壊れないでしょう。万が一、これらの御仁を一撃で仕留めることができようものなら、「○○スレイヤー」の称号を頂戴できるかもしれませんね。
 
 ただし、清潔じゃないのが私の懸念するところです。
 
 ハゲ子先輩ならば、いかなるアカウントへの言及も無毒・中和化できるかもしれませんが、私はそこまで無毒化スキルを取得していないので、ある種のネットアカウントに言及すると魂に1~6ポイントのダメージを負ってしまいます。ブログの威信値とかそういう問題以前に、言及すると堪えるアカウントってあると思うんですよ。ハゲ子先輩のリストを眺めていると、「ああ、これはタフだけど手を出しちゃまずいんじゃないのかな」的な懸念が沸々とわいてきます。悪酔いしそうなお酒みたいなリストじゃないですか。
 
 毒物耐性や疾病耐性のスキルを取得したブロガーなら、まあグリーンスライムだろうが腐った死体だろうが、とにかくタフであれば稽古の相手として良いのかもしれません。でも、その点では私はハゲ子先輩に比べてスキル取得が甘いというか、むしろ毒物耐性を幾らか失って別方面を強化した「デッキ」に仕上げてしまったものですから、こいつタフだぜハハハってなんでもかんでも挑みかかっていったら自分が死ぬというか、失うものが大きいんじゃないかと今は考えております。
 
 私だって、おおきなグリーンスライムを、耐性を持ったブロガーのみなさまがボヨンボヨヨンと殴っているさまを眺めて羨ましいと思うことはあります。どれだけ斬っても叩いても受け止めてくれるおおきなおおきなグリーンスライム! しかも炎上耐性まであるからオイルもたいまつも効かない!なんて魅力的なんでしょう! でも私が選んだブロガースキルがそれを許してくれないので、指をくわえて眺めていようかと思っています。
 

「人間はまるで蠅のようにふえ……。」

 今日の写経。
 

 「いかなる人間も方法ではなくて目的として取扱わなければならない」というカントの説が公式化されたのは、ちょうど、機械的産業が労働者を一つの手段として、すなわちより安価な機械的生産への一手段として扱いはじめた頃であった。人間は土地に対すると同じような冷酷な心で扱われ、労働は搾取され、掘りだされ、取りつくされて、結局は棄てられるべき一資源であった。そして労働者の生命と健康とにたいする責任は、日傭賃金の現金支払によって事終れりとされた。
 人間はまるで蠅のようにふえ、産業適齢期の十歳から十二歳に達するとすぐ織物工場や鉱山で年期で使われ、やがて医者にかかることもなく死んでいった。旧技術期のはじめには、彼等労働者の平均寿命は中産階級のそれよりも実に二十年も短かった。そして過去数世紀にわたっておもむろに進行してきた労働状態の頽廃は、イギリスの実業家の狡さと近視眼的な貪欲のため、十八世紀のイギリスでそのどん底に達した。旧技術期にイギリスより遅れて入った国々でも、これと同じ無残な現象が現れたが、イギリスはその先頭に立っていたのである。

 
 ルイス・マンフォード 著 生田勉 訳 『技術と文明』美術出版社、1972、P214-215より抜粋
 

amamakoさんのような若手ブロガーを見かけない

 
あままこのブログ
 
 これは観測範囲の問題を含んでいるので、不勉強な私に「こんな素敵なブログがあるよ!」って教えてくれる人がいたら嬉しいんだけど、
 
 id:amamakoさんのような、尖ったガラスの破片のごときブログを、ここ2年ほど見かけない。
 
 「若気の至りなブログ」や「痛々しいブログ」なら幾らでもある。ほら、はてなブログ方面を見ればいい。十代~二十代のどころか三十代~四十代まで、新進気鋭のブロガーのうちに「うわぁ……」と讃えたくなるような文章を吐き出して憚らないブログがゴロゴロしている。
 
 ブロガーが恥知らずであることは罪ではない。若気の至りであること、「俺たちって最高!」であることも罪ではない。お戯れの対象とみなされるのは必然だが、それが必要なプロセスという人も多いだろう。私だってそうだった*1し。
 
 だが、かつてのamamakoさん――その昔はrir6、sjs7などのハンドルネームも名乗っていた――のような、メリットやデメリットの計算も行わず衝動の赴くまま(しかし本人は熟考しているつもりである)文章を迸らせるようなブロガーはなかなか見かけない。「触るものは皆傷つけるようなブロガー」「無軌道のまま、目をつむって滅茶苦茶にナイフを振り回すようなブロガー」も見当たらない。
 
 断っておくが、かつてのamamakoさんが「衝動的なブロガーだった」とか、そういう単純な評価をしたいわけではない。
 
 衝動的なブロガーはともかく、衝動的なアカウントならニコニコ生放送twitterに幾らでもいる。だが、そのような衝動的なアカウントは、刃物にたとえるなら鈍器にほとんど近いハンドアックスやブロードソードみたいなもので、amamakoさんに備わっていたような、研ぎ澄まされたサーベルやシャムシールのような切れ味を備えているわけではない。 
 
 サーベルやシャムシールに例えると、当時のamamakoさんが「切れ者」であるかのような印象を与えてしまうかもしれないので補足しておくと、彼はそんな洗練された武器よりも、「使う者自身が怪我しかねない、危ない刃物が四方八方に伸びているような不安定な尖った何か」だった。武器ではなく「尖ったガラスの破片」「切り出されたばかりの黒曜石」と例えたほうが適切だかもしれない。とにかく、尖ってはいるけれども使い物にならず、そういう尖ったアカウントが目茶目茶にネット中二病をかましているような、言語化するとロクでもないような何かだった。
 
 ところが、今日のはてなブログ界隈、いや、twitter界隈などをみていても、かつてのamamakoさんのような目茶目茶なガラスの破片に相当する人はぜんぜん見かけない。
 
 尖った若者アカウント。これはいる。いや、尖ったキャラクターと言うべきか。キャラが立っていて、なんのために・どのように尖っているのかをはっきり意識した若者。本人がはっきりとキャラ立てを意識しているぶん、尖り具合はキャラクターの内側に回収されていて、そのぶん安全でわかりやすい。
 
 中二病的な若者アカウントもたくさんいる。だが、そのようなアカウントにも彼らなりの“計算”や“打算”が見え隠れしていて、「黒ひげ危機一髪」のようなハプニング性がかえって損なわれている。最も上等な水準から最も下等な水準まで、とにかくも“計算”や“打算”、政治的配慮、コミュニケーション、といったものを意識しているから、良くも悪くもそれらに絡めとられていている。
 
 社会批判やマジョリティへの弾劾を書き連ねるアカウントですら、2010年代のインターネットの空気のもとでは若いうちからキャラ化してしまうというか、コミュニケーションの網目に適応し過ぎてしまって、そういう意味では掴みやすくなってしまっているようにみえる。掴みやすいキャラほど、暫し眺めて、飽きてしまう。
 
 要は、現代の若いアカウントの中二病・尖り具合・衝動性ってのは、へたにキャラが立っているものだから、わかったことにしてしまいやすすぎる、のだと思う。本当にそのアカウントの“なかのひと”を理解しているかどうかは抜きに
 
 「中二病の様式が変わってしまって、amamakoさん風の、それか“はてなダイアリー風”の、と言うべきか、そういう尖り方がみられなくなってしまった」と言えば古いはてなユーザーにはニュアンスが伝わるかもしれない。
 
 振り返ってみると、amamakoさんというアカウント、あるいは「現象」は、00年代風の思春期心性の一形態だったのであって、『シュタインズゲート』や『中二病でも恋がしたい!』を楽しんでしまった後の2010年代中盤以降には遭遇しにくいものだった、と言わざるを得ない。
 
 本当は、私の観測範囲の問題と、インターネットのスポットライトの当たり具合の問題でしかないと信じたい。言葉のナイフをめくらめっぽうに振り回しながら、眠れない午前二時に苛立っているアカウントがどこかに群生しているとしたら、私は嬉しい。というより、そういうアカウントの群生地帯を見つけたら安堵するだろう。だが、そのような「ガラスの破片の理想郷」を私は発見できていない。
 
 このほか、ブルーシートオフ会的な習俗も観察しなくなったなぁ……と思う。今、ああいうタイプの若者同士がオフ会で繋がることってどれぐらいあるんだろうか? コミュニケーション親和的な若者がオフライン/オンラインも区別なく交流しているのは当然として、かつてのamamakoさんのような、コミュニケーション親和的とは言い難い黒曜石が素のまま交流しているハブステーション、あるいは居場所を、私はなかなか想像できない。ほかのインターネット古参兵な皆さんは、そういうガラスの破片をどこで新規発掘しているのだろう?
 

*1:ん?過去系にしていいのかな?お戯れなシロクマさんよ?

なんでもかんでもはてなブログのせいにしちゃいけないんだろうけど。

  
azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 やっべーイラスト付きで俺のことがdisられてるよ!
 最近うっすら自覚もあったので、半月ほど前に書いた文章をコピペしておきますね。↓




 
 なんでもかんでも「メディウム(メディア)」や「アーキテクチャ」のせいにしちゃいけないんだろうけど。
 
 はてなブログに移行して以来、1000字~2000字程度の、自分としては物足りず、事物を語るに尺の足りないブログ記事、いやブログ記事と呼べるかどうかもわからない短冊を大量生産してしまうようになって、これの在庫がダブついてきた。
 
 もともと私には「ブログの文章が書けて書けてしようがない時期」と「どう頑張っても書けない時期」がある。そのうえ原稿とかそういう方面にエネルギーを持っていかれることもあるため、ブログ記事を複数ストックし、間を埋めたり、それらしいイベントがあった好機に放流したりして更新頻度の間を持たせるようなことをする。だからブログ記事を一日に複数個作って貯めることもあったのだが……。
 
 最近、やたら数が生まれるようになって、しかも、気が付けば文章が短いのだ。
 
 はてなダイアリー時代の私は、1000~2000字のブログ記事を書くことが少なかった。たぶん苦手だったと思う。2500~5000字ぐらいのものが多かった。それぐらいでやっと「ひとまとまり」といった雰囲気だったわけだ。
 
 ところが手元には1000字~2000字の、子分のようなブログ記事下書きがコロコロ転がっている。まあ、これはこれでそんなに出来が悪いとは思わない。でも、なんだかはてなダイアリー『シロクマの屑籠』らしくない。むしろ、そこらに棲息しているはてなブロガーの記事みたいだ。まあまあだが「私らしくない」。2016年において「私らしくない」だなんて書くと阿呆みたいだけど、常連読者の人もそう思うんじゃないかという気がする。匂いが違う。
 
 長い下書きもそれなりできあがる。しかしそれ以上に湧いてくる1000~2000字の文章がポコポコ生まれたとして、これらをどうしたものか。ある程度はブログに投入して良いだろうけど、ある部分からは「不良債権」になりそうな気がする。まさか、無理に文字量を増やすなんてことはできない。もともと、ライターみたく簡潔な文章を書くのは下手な人間なんだから、ボリュームをかさましするとひどい出来栄えになるだろう。困ったなぁ。
 
 はてなブログのせいにして良いのか、それともはてなブログを大量に読んできて文化的に馴染んでしまったのか、いやいや自分自身のエネルギーの問題なのかわからないけど、まとまりの乏しい思考の火花を散らしても後にはなんにも残らないから、これは私のブログ大戦略にとって不利な変化だとは思う。や、人によってはこれが最適ってこともあるだろうけど、今の私には不利だろうなって話で。

  
 
 これよなぁ。よそのはてなブログは知らないけれど、『シロクマの屑籠』は読みやすければ良いってもんじゃないよなー。書き手にとっても、読み手にとっても。はてなダイアリー的な何かを取り戻さなければ。
 

 
 あまり他人のせいにせず、努力しろってことですよね。努力しましょうかね。はい、努力します。おわり。
 


 
 

ぼくが考えたブルゴーニュのヴィンテージの雰囲気

 
 後日の私にせせら笑ってもらうために、ここに書いておく。
 
 2001年以前について:まとまった数を呑んでないので、うんともかんとも。
 
 2002年:凄いヴィンテージと評判だった2002年。2010年ぐらいまではそうかもと思っていたけれども、以後、そんなにいいとは思わないし市場価格みてても評判が高止まりって雰囲気でもないような。今、無理して追いかけるべきヴィンテージなのかあんましわからない。
 
 2003年:「暑かった年」と言われていて00年代はそんなに評判良く無かったけれども、あまり外れた記憶が無く、なにげに長生きさんで優等生だったんじゃ?という気がする。少なくとも赤ワインについては、今見つけたら買っておきたくなる。
 
 2004年:ハズレヴィンテージと名高い2004年。そうなんだけど、早飲みには適していた。今はちょっと。
 
 2005年:大当たりヴィンテージとして名高い年。「悪い」という印象は今も持っていない。
 
 2006年:個人的にはあまり良い思い出のない年。できるだけ避ける。
 
 2007年:酸味がしっかり。良い年だと思う。特に白ワインはかなり信頼している。良さそうな保存状態のものなら買いたい。
 
 2008年:「小粒のさくらんぼ」の年。私でも酸っぱいと思うので高級価格帯の赤ワインは買いたくない。白ワインはなんだかよくわからない。安売りしていたら2016年時点では買うかも。
 
 2009年:現時点では信頼している。早飲み上等の時期を通り過ぎ、「硬い状態」になっているワイン多数。なんか寝かせないともったいない気がして抜栓できず、「お荷物」になりつつある。白も結構いけているような。
 
 2010年:最初はヘナチョコだと思っていたけれども結構いいような気がする。そこそこの価格帯でも飲んで美味いと思うことが出てきた。でも、それって本当にいいことなのかなー。良ヴィンテージという声も聞こえてくるので、もうちょっと探りを入れたいところ。
 
 2011年:2010年より濃いかもだけどあんまり良くないのでは?2009年には到底及びそうにないとは思う。でも滅茶苦茶悪い年でもなさそうな雰囲気。一応、買うには買うけれども、信頼度はまだよくわからない。
 
 2012年:平格を呑んだ限り、ちょっと駄目なのでは?少し良いクラスの品がすぐ飲めたのも気に入らない。なにより、価格設定がインフレしはじめているので、わざわざ上位クラスの品を買う気が起こらない。
 
 2013年:品質のことはさておき、値段が凄いことになっていて買う気が失せる。これからもこの価格帯に固定になったら、もうブルゴーニュを買う量を半分にしなければならないような。それでいて平格での調査の限りでは凄い良さげな雰囲気も伝わってこない。どうすんの?
 
 2014年:データ不足。
 
 ※個人の感想です。
 ※ちゃんとしたヴィンテージの傾向が知りたい人は、然るべき媒体か、然るべきグーグル検索か、とにかく、偉い人のやつを見てくださいね。
 
 

シロクマ(熊代亨)の著書